○ 6節を先に読みます。 『主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに』。 『見いだしうるときに』、そして、『近くにいますうちに』という表現は、恵まれた家庭環境にある間にとか、信仰生活をするのに困難がない内にとか、或いは若い時にとかと解釈されることが多いのですが、本来はそういうこととは違います。むしろ、逆です。 バビロンでの捕囚が終わり、故国イスラエルに帰還することが可能になりました。それが、この表現の意味する所です。今が、イスラエルに帰る、そして神に立ち返る絶好の機会です。むしろ、最後の機会です。しかし、多くの人々は帰ろうとしません。イスラエルに帰ろうとしないし、そも、神に帰ろうとしないのです。その理由について、大雑把に言えば、ユダヤ人の多くは、バビロンに滞在する50年間の間に、信仰を失っていたのです。 もう少し控えめに言った方が良いでしょうか。50年の間に、多くの犠牲を費やして、ようやく築いた生活を、或は、迫害の下でやっと守って来た生活を捨ててまで、イスラエルに帰りたくないし、神に帰りたくないのです。神のいない生活に慣れてしまったのです。 ○ ここで言われる、『見いだしうるときに』、そして、『近くにいますうちに』とは、悔い改めのチャンスのことです。誤解を恐れないで言えば、こういうことです。神さまは、苦しむ民・辱めを受けた民と共に居て下さるために、バビロンにまでやって来て下さった。捕囚の民と共に、居て下さった。しかし今、神はエルサレムにお帰りになられる。そういう意味です。 ○ さて7節 『神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。 わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる』 イザヤは、帰環の旅に加わる者の資格を一切取り払ってしまいました。勿論、その理由は、帰ろうとしない者が大多数だからです。しかし、もっと積極的な理由は、そもそのような資格を持った者は、誰もいない、資格の無い者と共に居て下さるのが、神さまだからです。 そのことが、1〜5節に反映されています。 ○ 『渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も 来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、 銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ』 神さまの恵み、神さまによる救いは、お金を出して買うことは出来ません。もし、お金で買おうと思ったならば、この地上の富の全てを積んでも、買い取ることは出来ません。 この頃、テレビなとで、人間のあらゆる細胞を、人工的に作り出すことが出来ると言われています。その通りなのでしょう。この研究が進めば、本当に人間の寿命は、現在の5割増しくらい、150歳くらいまで伸びるかも知れません。200歳かも知れません。 お金さえあれば、長生きできる世の中になるかも知れません。 ○ しかし、たとえ200歳まで長生きしても、やはり、それは、限りある命であり、儚い命です。織田信長が『人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり』と詠う場面はあまりにも有名です。ついでに、上杉謙信は『「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」』だそうです。謙信、信長の時代からすれば、現代は、寿命が倍になっています。しかし、人生が倍豊かになったとは、実感出来ません。 ○ 未来は知りませんが、目下は、どんな金持ちも、一億円出しても、己が人生に、ただの一日をも買い取ることは出来ません。その一方で、誰もが、無償で、ただで、この世に生まれて来ました。命の代金を支払って生まれて来た者はいません。高くついた命も、安い命もありません。皆、ただで、命を与えられ、生まれて来たのです。 ○ 当時世界最大の都バビロンで、一旗揚げた者は、片田舎に過ぎない、それどころか、荒廃したイスラエルに、敢えて戻りたいとは思いません。未だ若くて、成功の可能性を残している者も帰りたくはありません。そも、若者は、バビロンで生まれた第2世代、第3世代です。イスラエルを知りません。当然、郷愁など存在しません。 帰ろうとするのは、一目ふるさとの山を見て死にたいと考える年寄、そして、仕事も家もない、バビロンでは生活の成り立たない者です。 勿論、一握りの、真に信仰に生き、神さまとの約束を信じて、エルサレムを目指す、イザヤの弟子たちがいたことでしょう。 ○ イザヤ40章3〜4節、 『呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 4:谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、 狭い道は広い谷となれ』 ユダヤの民が捕らえられているバビロンから、故郷イスラエルまでの道筋には、砂漠が横たわり、多くの山と谷とが道を塞いでいます。 その谷は、高くせられとありますが、むしろ、谷自らが背伸びをして高くなり、主が歩む妨げになるまいとするという意味合いです。また、山は、低くせられとありますが、むしろ、山は自らが身を屈めて背を低くし、主の歩むのに妨げになるまいとするという意味合いです。 新共同訳聖書は、そのような意味を踏まえて訳しています。勿論、この箇所の全体が、所謂、終末論的、黙示的に表現されたものです。 しかし、その一方で、この預言は、極めて現実的なことを踏まえているのではないでしょうか。つまり、イザヤの群れは、足腰が弱り、杖をつき、足を引き摺っている群れだったのではないでしょうか。 ○ 55章2節。 『なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬ もののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを 食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。』 これは客観的に見て、決して裕福な人々への語りかけではありません。イザヤの群れは、こうした貧しい人々の群れだったのです。しかし、これは、勿論、食料や生活のことだけを言っているのではありません。食料や生活のことは、あくまでも比喩です。 真の救いを求めて生きるということが、重ねられているのです。 食料や生活のことだったならば、バビロンの方が豊かでしょう。しかし、バビロンの富は、本当には人々を満足させることはない、真に豊かになることはないと、説いているのです。 ○ 55章3節。 『耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、 魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。 ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。』 『ダビデに約束した真実の慈しみ』、キリスト者に言わせれば、『神の国の約束』です。その神の国の担い手になるのは、神の国の住民となるのは、『渇きを覚えている者…、銀を持たない者、銀を払うことの出来ない者なのです。『価を払うことなく』、『ぶどう酒と乳を得』ることが出来るのです。つまり、救いは、ただ神の招きによってのみ実現するのです。 人がなすべきは、神の招きの声に聞き従うことだけです。 ○ 4節。 『見よ かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし 諸国民の指導者、統治者とした』 彼とは、ダビデのことです。イスラエルの人々にとって、王ダビデの時代がもっとも国力強大な、栄光の時でした。 しかし、5節、今、新しいイスラエルでは、神が人々の王となられるのです。まさに、神の国なのです。 私たちキリスト者は、この箇所を、私たちに与えられた預言として読みます。 『今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は あなたのもとに馳せ参じるであろう。 あなたの神である主 あなたに輝きを与えられる イスラエルの聖なる神のゆえに』 私たちは、ここを、教会とその宣教と重ねて読むのです。 ○ 6〜7節は、先に読みましたように、神の国に入れて貰える条件として、唯一、悔い改めだけを上げています。救いに入れられる条件は、悔い改めだけです。外に何も要りません。神は、憐みの神です。人間に何か、特別の能力を求めているのではありません。まして、英雄が、神の代理として働くことを期待しているのではありません。 ○ さて、ここに描かれていることと、私たちの教会の現状とが重なるように思います。 私たちの教会・教団の状況は、イザヤ55章の前後に描かれる人々の現実と重なるのです。 私たちの足腰は弱っています。教会の体力が落ちていると言う言い方もなされます。何でも、2030年危機というものがあって、この時に、日本基督教団の教勢は、現在の半分以下に下がるそうです。 まことに、悲観的な状況、絶望的な観測とさえ言えます。そして、この日本基督教団についての分析は、私たち玉川平安教会にも、ぴったりと当てはまるのかも知れません。 しかし、実は、教団も、教会も、千載一遇のチャンスを迎えているのではないでしょうか。 パウロがこのように言っています。 『わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。 9:わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、 死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。 10:神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、 また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、 わたしたちは神に希望をかけています』 第2コリントの1章8節以下です。 実に、初代教会の姿こそ、イザヤの群れの姿だったのです。 第1コリント1章26〜28節。 『26:兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。 人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、 家柄のよい者が多かったわけでもありません。 27:ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、 力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 28:また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、 身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。』 ○ ドストエフスキーの『罪と罰』の中で、ヒロイン・ソーニャの父マルメラードフは、酔いに任せて叫びます。 《渇いている奴は、みんな来い 金の無い奴も、みんな来い 売春婦も、 酔いどれ野郎も、みんな来い》 神さまは、貧乏人も、社会の最下層に居る者も、罪を侵した者も、決して別け隔てなさらないという意味合いで、ドストエフスキーは、この言葉を語らせています。 ドストエフスキーは、明らかに、イザヤ書55章を念頭においています。しかも、この箇所、つまり、55章1節の解釈において、どんな神学者にも負けない、深いものを持っています。 ○ 旧約聖書の中でも特に古い資料を見ますと、富・地位・健康は、特別に神に愛されている《しるし》であると考えられています。 つまり、当初、ユダヤの人の考えた神は、金持ちの、お偉い人の、丈夫な人の味方でありました。神さまが着いているから、全てのことから守られ、全てのことに恵まれている、その結果金持ちになるし、偉くもなると考えました。むしろ自然なものの考え方かも知れません。 やがて、時代が下ると、預言者たちは、逆に、貧しい者、虐げられている者、健康を損ねている者の味方として、神さまをとらえるようになります。 むしろ、強欲、残酷、仮借の無さの故にこそ、人は、金持ちになり、高い地位に着き、健康でいられるのだと考えれば、これも、理屈に適うかも知れません。 但し、預言者は、貧しいこと、虐げられていること、健康を損ねていることだけで、神の恵みを受ける資格として足りるとしたのではありませんで、条件が付いておりました。志操高く、信仰的な生き方をしているということです。と言うより、志操高く信仰的な生き方をしているために、この世の、富や地位に縁が無い、そういった人々を、神は愛するのだと考えた訳です。 そうして見ますと、昔とは、条件が違ったけれども、特別に人並み優れた能力を発揮する者を、神は愛するということは、少しも変わらないということになります。 富・地位・健康に優れた者をではなく、志操・信仰に優れた者を、神は愛するのでしょうか。 ○ ドストエフスキーにおいては、この条件が全く外されています。売春婦・アル中、そういう表現は差別表現だと言う人もありますが、何と呼ぼうと、彼らが、社会の最下層の人間であり、道徳的にも、勿論、信仰的にも、最低の人間でした。 そんな人間でも、神は、食卓に招いて下さる。むしろ、そんな人間だからこそ、神の助けが必要なのだ。神の助けが必要な者こそが、神に一番近い所に居るのだ。 これが、簡単に言えば、ドストエフスキーの主張です。そして、間違いなく、そもそも、イザヤの、より正確に言えば、後に第2イザヤと呼ばれるようになった、匿名の預言者の思想なのです。 この匿名は、それ以前の預言者に比較しても、そもそも預言の性格からしても、全く例外、異常なことでさえあります。匿名であることは、第2イザヤ書の今申し上げたような内容と、深く結び付いていると考えられます。彼は、有名な預言者であることを拒否しているのです。 |