日本基督教団 玉川平安教会

■2020年2月23日

■説教題 「書き記された巻物」
■聖書  エレミヤ書 36章1〜18節


○ ヨハネ福音書は、『初めに言があった』で始まります。ヘルマン・ヘッセの『郷愁』の冒頭は「初めに神話ありき」、そしてシュテファン・ツブァイクの『マゼラン』では、「はじめに香辛料ありき」です。このことが既に、ヘッセやツブァイクの聖書理解信仰理解に繋がるものがあります。しかし、そこに触れている暇はありません。

 『マゼラン』でツブァイクは言います。

 「しかし、実際には、このあまり映えない乗員こそ、マゼランにとってその航海のもっとも重要な参加者となったのである。というのは、行為というのものは、それが叙述されなければ、何の価値もないからである。歴史的偉業も、それが行為としてなしとげられたときではなく、それが後世に伝えられたときにはじめて完成するのである」。


○ マゼランの航海の同行者で、その記録を残したアントニオ・ピガフェッタについて述べた文章です。

 その例として、ツブァイクは「ホーマーがいなければアキレスは無であった」と言います。

 この論理は些か強引かも知れませんが、しかし、一面の真理を持っていると考えます。同様に、福音書記者を上げ、そして、今日のバルクを上げることが出来るのではないでしょうか。

 

○ この箇所は、私たちに、エレミヤ書の成立の過程を教えてくれるように思います。その点でも大変興味深いと思います。しかし、勿論それ以上に、内容が重要です。

 そして、今日の教会を、この内容に重ねて読む時に、私たちに伝道の根本の根本を指し示しているように思われるのです。


○ 1節。

 『ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ』

 ヨヤキム、口語訳ではエホヤキムは、紀元前609〜598年が、在位期間です。

 2節には、『ヨシヤの時代から今日に至るまで』とあります。そうしますと、この出来事があったのは、紀元前604年ということになります。南王国ユダの滅亡を紀元前587年としますと、その約10年前ということになります。

 王国滅亡の10年前、日本だったら昭和10年、嵐の中に入ろうとする時代です。もう既に波は高く、時代の終りが近いことは、誰の目にも明らかです。

 預言者エレミヤの活動期間が、紀元前626年〜586年とすれば、その4分の3が過ぎた時となります。このような数字だけで、エレミヤの置かれた終末的状況を、感じていただけるものと思います。


○ 2節。

 『「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、

   および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい』

 もう一度申しますが、『ヨシヤの時代から今日に至るまで』30年間、神が預言者エレミヤを通じて人々に語って来た言葉、その全てを『残らず書き記しなさい』。

 さらりと読んでしまいますが、これは大変なことです。神は30年間語り続けて来ました。預言者エレミヤも、その預言を、人々に伝え続けて来ました。

 私たちは、預言という言葉を聞きますと、何だか、単発的な言葉、一回きりのことのように考えますが、このように継続的に、繰り返して語られて来たのです。その言葉が、積み重ねられているのです。

 30年で驚いてはなりません。イスラエルの歴史を通じて、神は語り続けて来ました。アブラハムとなりますと、ちょっと次第の確定は困難ですが、ダビデからでも、この時点で既に400年経っています。神は預言者の口を通して語り続け、それは積み重なっているのです。


○ 3節。

 『ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、

   それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す』

 『立ち帰るかもしれない。そうすれば、…赦す』、小さいことに拘ってはならないのかも知れませんが、とても気に懸かります。『立ち帰るかもしれない。』立ち帰らないかも知れない。確実ではありません。

 勿論不確実なのは、神さまではありません。人間です。

 私たちの伝道にも、絶対ということはありません。悪く言えば、向こう様次第です。

 チャンスを与えることは出来ますが、無理矢理ということは出来ません。

 何故なら、それは悔い改めであり、過去の言葉を受け止めた人間の行為です。もし、伝道する側の行為ならば、それは、洗脳です。

 語ることは出来ます。伝えることは出来ます。しかし、それを受け止めるのは、語る側、伝える側の行為ではありません。


○ 4節。

 『エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、

   主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した』

 このまま素直に読めば、過去30年分の預言を、エレミヤはまとめて語り、バルクは一気に記したことになります。折々に語られるエレミヤの言葉を、バルクが少しずつ書き貯めていたとは述べられていません。

 つまり、エレミヤ自身が心の内に記憶していた、貯めていた言葉を、ここで一気に吐き出し、バルクが受け止めたということです。

 エレミヤはこの言葉を神さまから受け取りました。口伝です。それが今、文字になりました。

 

○ 言葉が文字にされる、そうしますと、筆写してコピーも作れますし、保存できるし、拡がりを持ちます。

 6節にありますように、これが人々の前で朗読されます。

 『お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から

   主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。

   また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい』

 これは、聖書そのものの歴史ですし、伝道の歴史でもあります。

 

○ 5節に戻ります。

 『エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている』

 何故禁じられたのか、その詳細は分かりませんが、エレミヤ書を読んでいますと、不思議ではありません。エレミヤは、当時の祭司たちと激しく対立していました。

 『禁じられている』、妨げられています。そのためには、エレミヤ当人ではなく、バルクが筆写されたものを携えて行き、それを朗読するというまだるっこい真似をしなくてはなりませんでした。しかし、結果的には、それが大きな意味を持ちました。


○ 偉大な預言者エレミヤといえども、何か特権を持っていて、それを頼りに活動したのではありません。むしろ、絶えず妨げられていました。この後には、投獄され、自由を奪われます。

 しかし、パウロもそうですし、イエスさま自身がそうです。

 キリスト教の歴史では、迫害こそが、教えが飛躍的に広まる契機となります。

 それは、今日でも同じです。 

 中国でもロシアでも、東欧諸国でも、迫害弾圧された国々のキリスト教は、飛躍的に進展しています。本当に不思議です。しかし、それが隠れようもない事実です。逆にぬるま湯に浸かったようにしていられた国では、教勢はちっとも振るいません。


○ 私たちの教会だって、同じことかも知れません。

 妨げけるられことなく、自由に勝手に動き回る者は、教会を滅ぼします。特権や特別な能力を与えられた者が、教会を立てるのではありません。

 何よりも、私たちは、神の言葉によって、縛り付けられ、不自由にさせられ、そして、ご用に当たるのです。

 エレミヤ書1章7〜9節。

 『しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。

   わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、

   行ってわたしが命じることをすべて語れ。

 8:彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と主は言われた。

 9:主は手を伸ばして、わたしの口に触れ 主はわたしに言われた。

   「見よ、わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける。


○ 6節はもう一度読みます。

 『お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から

   主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。

   また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい』

 聖書を通じて言葉が文字になり、文字が言葉になり、そしてまた、こういうことが繰り返されます。そして、人から人へ伝えられる、これが伝道です。

 

○ 人から人へ伝えられるのが伝道ならば、文字は要らないのか、そうではありません。伝言ゲームのように、伝えられる間に、どうしても少しずつ解釈が加わります。その結果、強弱が付けられたり、説明が挿入されたり、割愛されたりします。少なくとも、強弱が付けられます。

 しかし、文字に記されているからこそ、必ず、元の形に帰ります。帰ることが出来ます。

 

○ 7節。

 『この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、

   人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない』

 3節に続いて、ここでも『立ち帰るかもしれない』とあります。

 実は、ここは翻訳によってかなり響きが違います。

 新共同訳聖書『立ち帰るかもしれない』、口語訳『立ち帰ることもあろう』、関根正雄訳『立ち帰るであろう』。それぞれで可能性が高く聞こえるものと、低く聞こえるものがあります。

 3節も同様です。

 解釈上、大きな違いかも知れませんが、しかし、立ち帰るなら救いの可能性があるという点では同じことです。拘るなら、むしろ、3節の口語訳です。

 『ユダの家がわたしの下そうとしているすべての災を聞いて、

   おのおのその悪い道を離れて帰ることもあろう。

   そうすれば、わたしはそのとがとその罪をゆるすかも知れない』

 『罪をゆるすかも知れない』とは、些か奇妙に聞こえます。

 新共同訳聖書とは大分違います。

 『ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、

   それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。

   そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。』

 曖昧な部分と確実な部分とが、全く逆です。

 しかし、それでも、立ち帰るなら救いの可能性があるという点では同じことです。


○ 悔い改めが先ずあるということでしょう。救いがあるならば悔い改めるし、そうでないなら悔い改めないというようなことではありません。

 人間の側から条件を設ける悔い改めなど、存在しません。


○ 8節。

 『そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、

   巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ』

 『エレミヤが命じたとおり』ですし、『巻物に記された主の言葉を』です。更に、『主の神殿で』です。

 私たちの場合に置き換えれば、主の御名によって、聖書の言葉を、教会でとなります。

 この三つの要素が壊れると、それは、礼拝ではありません。読まれるものも、聖書ではなくなってしまいます。


○ 主の御名によって、礼拝は招集されます。誰かの名前によってではありません。宗教法人法の規定はどうであれ、礼拝は、教会会議は、主の御名によって、招集されます。そうではないような仕方で、招集されるならば、それは礼拝ではないでしょう。むしろ、礼拝の破壊でしょう。

 礼拝では聖書の言葉が語られます。それ以外の書物は、せいぜい参考資料譬えであって、聖書以外の書物が教えたり、権威を持ったりすることはありません。あってはなりません。

 教会以外のところで礼拝が持たれる場合はあります。教団総会は、収容人数の関係で、大抵ホテルで開かれ、そこで礼拝が持たれます。家庭集会も礼拝に準ずる場です。しかし、その場所は教会と結び付いています。教会と全く無関係に、個人の業として礼拝が持たれるならば、危ういことです。少なくとも異常事態です。

 

○ 最後に、この出来事の結果は、何を招来したでしょうか。簡単に分かり易く説明するためには、37章以下の小見出しを拾って読んでみて下さい。

 「エレミヤの逮捕」、「水溜めに投げ込まれる」、「エルサレムの陥落」と続きます。大変なことになりす。

 エレミヤは語り、書物に記しました。それでも、人々は悔い改めなかったし、神さまは赦さなかったのです。

 しかし、命を賭したエレミヤとバルクの働きを通して、エレミヤ書が私たちに遺され、私たちにも、悔い改めて救いに至る道が遺されているのです。

 エレミヤ一人ではありません。他の預言者たちも、旧約聖書、新約聖書に登場する預言者・使徒たちによって、その命の犠牲によって、私たちに、救いの道が指し示されているのです。