日本基督教団 玉川平安教会

■2020年3月8日

■説教題 「無力な神を造るもの」
■聖書  イザヤ書 44章1〜20節 


○『わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない』

 『だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ』

 6〜7節で言われていることは、要するに、神さまは唯一無比の存在であって、他に並ぶものはないということです。更に付け加えるならば、神さまはイスラエルと共に歩いて来られた。だから、神さまが唯一無比の存在だということを、イスラエルこそ、他の誰よりも良く良く知っている筈ではないかということです。

 

○ このことを、私たちの教会に当てはめて考えなくてはなりません。私たちの教会の歩みと共に神は歩いて来られた、玉川平安教会の83年と、神は一緒におられたということです。

 しかし、預言者イザヤの時代も、イエスさまの時代も、神さまは唯一無比の存在ということが、粗末に扱われて来ました。私たちはどうなのかと、問われています。本当に神さまが玉川平安教会と共に歩まれ、私たちを導いていて下さることを信じているのか、その信仰を大前提として、いろいろな事柄に当たって来たのかということが問われています。


○ イザヤ書では、神がイスラエルと共におられると、繰り返し繰り返し記されています。

 43章1〜3節。

 『ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、

   あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。

   あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

  2:水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。

   大河の中を通っても、あなたは押し流されない。

  火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない』。


○ あなたの救い主、神がイスラエルをエジプトから贖い取られたと、イザヤは何度も繰り返します。しかし、エジプトから贖い取られた、奴隷から救い出されたイスラエルがしたことは、エジプト時代よりも食べ物が粗末だと不平を言い立て、神は本当に守って下さるのかと不安に駆られ、結局、金の子牛という偶像を作り上げ、これを拝み、その周りで歌い踊ります。

 『恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/

  告げてきたではないか〜わたしをおいて神があろうか、岩があろうか』。

 イスラエルは、神の言葉よりも、金の子牛を選び、その周りで歌い踊ることを選びました。

 

○ 神ならぬ者が神とされてきた、その最も顕著な例が、偶像崇拝です。

 預言者イザヤの時代については、今日の箇所を読んだだけで分かります。

 イエスさまの時代も、宗教改革の時代も、何時の時代にも、教会の中にさえ、偶像が存在していました。今日も例外ではないでしょう。様々な偶像が入り込んで来ます。

 不安になり、不平を言い立て、そしてその不安を忘れるために、歌い踊ることを選んでいるのです。


○ ゴールディングに『蠅の王』という小説があります。ノーベル文学賞作品です。近未来世界で核戦争が起こり、飛行機が孤島に不時着し、大人は一人もいない中、子どもだけで生き延びる姿を描いています。この『蠅の王』の中に、こんな場面があります。

 子どもたちの間に漠然とした不安が起こり、拡がります。単なる自然現象にも脅え、悪魔が接近していると信じ、結局は自分たちが殺して食べた野生の豚の頭、腐って蠅が一杯たかった豚の頭を拝み、この周囲で歌い踊り狂います。それだけが、その狂信だけが、彼らの不安をなだめるものだったのです。

 この場面の子どもたちと、金の子牛を拝むイスラエルの人々とが重なって見えます。著者は意図的に重ねて描いているのだろうと、私は思います。

 『蠅の王』、聖書のベルゼブブ・ベルゼブルであり、サタンの親玉です。この意味を、ゴールディングは、あらゆる者の中に巣くい、一切を空しいと思わせる者、腐らせる者と描いています。『蠅の王』は人間の心の中に済み、心の内側から一切を腐らせてしまう存在です。


○ 人々が金の子牛を拝み踊り狂っていた、その時に、モーセは人々から離れていました。シナイ山に上り、神さまから、十戒を授けられていたからです。

 その時に、シナイ山で、神さまから十戒を授けられていたその時に、人々は、金の子牛を鋳造し、拝んでいたのです。金の子牛の周りで歌い踊っていたのです。


○ 9節以下を読みます。正直諄い気もしますが、それだけ、イザヤは熱を込めて語っています。私たちは、この言葉を聞き、真っ正面から向かい合わなくてはなりません。後半を先に読みます。12節。

 『鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、

  強い腕を振るって働くが/飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる』。

 『飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる』弱い人間が、その手で、神さまを拵えることが出来るのか、『飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる』弱い人間が作り上げたものが、本当に神なのか、イザヤは問いかけます。


○ 9節。

 『偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。

   彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける』

 偶像が神ではないということを、一番良く知っているのが、これを拵えた職人です。

 かつて、バビロンに連れ去られ奴隷として働かせられたイスラエルの人々は、灼熱の砂漠で金属を溶かし、それを鋳型に入れ、牛や馬の神さまを造らされました。また、自分たちを苦しめる鉄の剣や槍、矢を造らされました。

 その奴隷生活を通じて、牛や馬の神さまは、自分たちを救ってはくれない、自分たちが造った神々は、自分たちを救ってはくれない、むしろ苦しめ命を奪うだけだと知った筈です。

 鉄の剣や槍、矢は、戦いを終結させ平和を創り出す武器ではないと、身に染みて知った筈です。しかし、時が経つと、また、偶像を求め、これを請い慕うのです。


○ 13節。

 『木工は寸法を計り、石筆で図を描き/のみで削り、コンパスで図を描き/

   人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り/神殿に置く』。

 ここでは、神の姿に似せて人間が造られたとは言っていません。全く逆です。『人間の美しさに似せて』偶像なる神が造られました。偶像なる神は、人間の模造品に過ぎません。

 むしろ、イザヤに逆らうようなことを言ってはいけませんが、むしろ、人間の醜さに似せて、偶像なる神が造られたのではないでしょうか。偶像の神は、時に人間の美しい表情や優しい心を写していますが、それ以上に、人間の憎しみや嫉妬、欲を写し出しています。人間の醜さを、悪魔性を再現しています。それが『蠅の王』ベルゼブルです。


○ 14〜15節。

 『彼は林の中で力を尽くし 樅を切り、柏や樫の木を選び

  また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。

 15:木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め

  一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 

  木像に仕立ててそれを拝むのか』。

 このようにイザヤが語ると、本当に偶像崇拝がどんなに愚かな業かが、分かります。

 16節。

 『また、木材の半分を燃やして火にし 肉を食べようとしてその半分の上であぶり

  食べ飽きて身が温まると 「ああ、温かい、炎が見える」などと言う』。

 

○ 昔から、優れた絵や彫刻が命を吹き込まれて、自ら動き出すという話があります。日本にも、ユダヤにも、欧米のキリスト教国家にさえ、そんな話があります。

 実は聖書にもあります。

 創世記2章7節。

 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

  その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』。

 一見似たような話ですが、実は全く逆です。

 人間が神さまを造ったのではなく、神さまが人を造ったのです。そして、所詮は土の塵に過ぎない存在なのに、『その鼻に命の息を吹き入れられた』。だから、『人は … 生きる者となった』のです。似たような話ですが、全く逆なのです。


○ 17節。

 『残りの木で神を、自分のための偶像を造り ひれ伏して拝み、祈って言う。

  「お救いください、あなたはわたしの神」と』。

 救いはありません。何しろ、この偶像は人間が作ったもので、人間の弱さを、人間の醜さを、何よりも人間の罪を写して造られているのです。人間の罪を模して造られているものが、人間を救うことなどありうません。


○ ホセマリア・サンチェスシルバというスペインの作家に、『汚れなき悪戯』という名作があります。映画の方が知られているでしょうか。少し話が違います。そこでは、物置部屋に忘れられていた十字架、十字架に架けられているイエスさまに、幼い孤児で、いたずらっ子の主人公が、パンを運び、やがて会話するようになり、ために、パンや葡萄酒を台所から掠めます。これこそが『汚れなき悪戯』の由来でしょう。哀しくも美しい物語です。映画の主題歌、『マルセリーノ、マルセリーノ』という物悲しい旋律が、忘れられません。

 しかし、偶像は偶像です。譬えイエスさまが架けられている十字架であっても、偶像は偶像です。17節をもう一度読みます。

 『残りの木で神を、自分のための偶像を造り/ひれ伏して拝み、

  祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と』。

 救いはありません。何しろ、この偶像は人間が作ったもので、人間の弱さを、人間の醜さを、何よりも人間の罪を写して造られているのです。人間の罪を模して造られているものが、人間を救うことなどありません。


○ 10〜11節。

 『無力な神を造り/役に立たない偶像を鋳る者はすべて

 11:その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず/皆集まって立ち、

   恐れ、恥を受ける』。

 今教会暦は、受難節・レントにあります。このことを取り上げたニュースはないようです。私は見ておりません。一方、レントの前は、カーニバルです。年々盛んになっていますが、今年は新型コロナウィルスのニュースに隠れてしまったようです。

 ところでカーニバルとはそもそも何なのか、一般の人は知っているのでしょうか。バレンタインデーだって、ハローウィンだって怪しいものです。背景にある信仰・宗教とか、ましてそれが反キリスト教的だということには、誰も知識も関心もありません。


○ 背景にある宗教には誰も知識も関心もないとすれば、逆に言えば、ハローウィンにも、バレンタインデーにも、特に目くじらを立てる必要もないでしょう。単なる馬鹿騒ぎでしかありませんから。

 しかし、同じ論法を、クリスマスに当て嵌めたらどうなるのでしょうか。これも、背景にある宗教には誰も知識も関心もありませんから、単なる馬鹿騒ぎでしかありませんから、放っておけばよろしいのでしょうか。

 なら、イースターはどうでしょうか。何でも、今年から、イースター商戦が始まる見込みだったそうですが、これも、コロナウィルスのニュースに隠れてしまったようです。


○ 本質的なことは忘れ去られて、表面的なことしか残らない、表面的なことだけが関心事で、ようは楽しければそれでいい、正に偶像崇拝です。

 教会は、そのようなところではありません。十字架の死によって、人間の罪を贖って下さった方を、礼拝する場所なのです。


○ イザヤが言うように、人間は偶像を刻んでも、本物の神を造ることは出来ません。しかし、悪魔を造ることは可能かも知れません。偶像を刻むことが、悪魔を産み出すことにつながるかも知れません。

 空しいもの、神ならぬ者が崇めることは、直ちに、悪魔を造ることになるかも知れません。そうした悪魔はかつて存在しました。そんなに昔の話ではありません。今だって、悪魔が造られているかも知れません。


○ さて最後に申し上げなければなりません。イザヤの預言は裁きに満ちています。人間の心の中に存在する罪を暴き立てます。この預言に真っ正面に向かい合う時に、暗い気持ちになってしまいます。しかし、ここに救いがあります。

 神さまは、そのような人間の罪をご存知です。人間の心の中に巣くうベルゼブルの誘惑もご存じです。

 逆に言うと、人間の表面を飾り立てたものにごまかされたりなさいません。当然です。ですから、私たちは表面を飾り立てる必要はありません。美しく見せる必要はありません。

 イザヤの預言は裁きに留まりません。ここにこそ、赦しがあります。

 神さまには、背負いきれない罪はありません。そのことは、次週のイザヤ書46章で詳しく申し上げたいと思います。