○ キリスト教・教会に全く無関心、むしろ反感を持っている人が、今日の、所謂100匹の羊の譬えを読んだら、どう思うでしょうか。 私たちのように、教会で礼拝を守り、当たり前のように、聖書を神さまの言葉として聞いている者とは、相当に違った感想になるのではないでしょうか。 その感想とは、「おかしいんじゃないの」です。おかしいのは、100匹の羊を持っている羊飼いのことです。これは小学校5年生の女の子の感想でした。 『百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、 九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか』 客観的に見て、愚かな行為ではないでしょうか。 『九十九匹を野原に残して』、これは大変なことです。愚かな対応です。当時のパレスチナの『野原』です。いろんな獣がいます。羊泥棒もいます。それなのに『九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回』ったならば、例え迷子の羊を連れ帰ったとしても、この99匹は獣に襲われ、食われてしまっているかも知れません。盗賊に盗まれ返ってこないかも知れません。ダビデの物語には、ライオンが出て来ます。 教会学校の子供が、この矛盾に気付いたのです。 当時のパレスチナの『野原』には、ライオンだっていたかも知れません。 ○ 賢い方策、正しい対処は、先ず99匹の羊を、安全な牧場に連れ帰り、それから迷子の1匹を探すことではないでしょうか。1匹のために、99匹を危険な目に遭わせることは、羊飼いとしては、何とも愚かな策です。そもそも迷子になるような羊は、ろくな羊ではないでしょう。はぐれ者なのか、それとも愚図なのか、いずれにしろ大した羊ではありません。こんな羊を取り戻すよりも、残りの羊の安全を確保し、これに新しい子羊を産ませる方が、ずっと良い策でしょう。たった1匹に拘り続けるのは、どうしてでしょう。迷子の一人の生徒のために、教室の他の生徒はみんな、「またあいつか」と辟易としているかも知れません。 ○【見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう】 これも不可解です。『その羊を担いで、家に帰り』、羊は怪我をしていたのでしょうか。絵本などではそういう絵柄になっています。もしかしたら、愚図で或いは反抗的で、素直に羊飼いの後に従わなかったのかも知れません。 そんな駄目羊を連れ戻して、何が『一緒に喜んでください』でしょうか。『友達や近所の人々』はあきれるかも知れません。この羊飼いを馬鹿にするかも知れません。 他の99匹の羊は、反感を持つかも知れません。 それとも羊だから、そんな高等な感情はないでしょうか。 ○ さて、11月1日、召天者記念礼拝時に、15章11節以下に記された『放蕩息子の譬え』を読みました。この礼拝に出席され、説教を聞かれた方は、もうお気づきでしょう。 100匹の羊の話は、『放蕩息子の譬え』と、良く似ています。構造的にはそっくりです。 基本、同じ話、同じ主題なのです。駄目な息子が、家を出て行きました。放蕩のあげく、尾羽打ち枯らして戻って来たのに、父親はこれを大歓迎したという話です。 両方とも、駄目な者が帰って来たら、喜ばれたという話です。 ○ 何故、駄目な羊が大切に扱われるのか、それも放蕩息子の場合と同じです。どんなに駄目な息子でも、父親から見れば、大切な、掛け替えのない息子です。同様に、この迷子の羊は、羊飼いにとって、掛け替えのない存在です。掛け替えのない存在だから、危険を冒してもこれを取り戻さなくてはならないのです。 実際の羊ならば、先ほど申しましたように、残りの99匹を育てて、子を産ました方が、遙かに得策です。駄目な1匹のために、他の99匹を危ない目に遭わせてはなりません。しかし、この羊は、単に羊ではなく、迷える信仰者を比喩しています。もっと露骨に言えば、駄目な信仰者を表しています。 神さまは、この駄目な信仰者を、早く他と交換した方が良い存在とは見ずに、掛け替えのない存在であるかのように、見て下さる、これが、この譬え話の意味です。 ○ 譬え話はあくまでも譬え話ですから、話し手の意図を超えたこと、些末なことに拘るのは間違いかも知れませんが、私には、どうも気になります。 つまり、100匹の羊の内の1匹がいないことに、羊飼いは、どうして気付いたのかということです。牧場に戻って、柵の内に追いこみ、その際に、1匹2匹と数えたのなら分かります。しかし、野原です。そこに100匹の羊がうじゃうじゃといます。どうしたら、99匹まで数えられるのでしょう。 野原とは、日本のような壕れる草地、平坦な土地を表す言葉ではありません。この地方で、羊を飼う場所は、大きな岩がゴロゴロと転がるような、荒れ地です。岩は羊よりも大きいものがあります。その蔭になったら、羊は見えません。99匹まで数えるには、野鳥の観察をする人のような、特別な技術が必要でしょう。当時の羊飼いはそうした技術を持っていたかも知れません。しかし、バードウォッチャーのような、双眼鏡も、カウントする道具も持っていません。 … 譬え話ですから、拘るのは間違いでしょうか。 ○ 松江時代に、しばしば子供を連れて海に行きました。正確に言えば、私が海大好きなので、子供を出汁にして出掛けていただけです。子供を遊ばせておいて、私はタコや貝を捕ったりしています。今から思うと子供を危ない目に遭わせていました。 時々、浜の方を見まして、子供を確認します。松江の小さい浜ですが、数十人位は遊んでいます。特に男の子は、黒い海水パンツ一つですから、誰もが似たような姿です。それでも、親の目には、直ぐに我が子が分かります。黒い海水パンツの後ろ姿であっても、ちゃんと分かります。それが親というものでしょう。 ○ 羊飼いも同様だったのではないでしょうか。この話は、1匹2匹と数えて、99匹、おや1匹足りないという話ではありません。羊だからメリーさんにしましょうか。1匹足りないという話ではなく、メリーさんがいないという話なのです。 だから、掛け替えのない存在であり、新しい子羊を補えば済む話ではありません。 北欧のラップランドで、トナカイを飼う少年の話を読んだことがあります。一人で200頭ものトナカイを面倒見ています。私たち日本人からしたら、トナカイなんて、どれもこれも同じで、全く見分けが付きません。 しかし、この少年は200頭のトナカイ、全部の見分けが付きます。それぞれに名前を付けているのだそうです。それが、トナカイを飼う者です。それが羊飼いです。 ○ さて、普通なら、これで説教は終わりです。しかし、未だ分量的にも、内容的にも、未だ半分だと私は考えます。 迷子になった1匹の羊を見てまいりましたが、今度は、99匹の羊を見なくてはなりません。99匹、100匹に1匹だけ足りません。もし1万円札が99枚あったらどうしましょうか。もう1枚足して、100万円にしたくなります。それが自然な感情です。100、切りが良い数字です。100、100パーセントです。99だと1パーセント足りません。 つまり、99パーセントは、1パーセント足りない、不完全な数字です。 ○ 先ほどから、1パーセントに当たる迷子の羊を、駄目羊だの、はぐれなのと言ってきました。この1匹の羊に自分を重ねて見る人にとっては、あまり、耳障りが良くなかったかも知れません。もう少し、この1匹に暖かい目を向けて欲しいと思うかも知れません。 1匹の羊が駄目羊で、はぐれならば、それでは99匹はどうでしょうか。 この点をお考え下さい。 99匹は、不完全な数字です。100匹ではありません。100パーセントではありません。足りません。欠けています。 ○『放蕩息子』の時にも、本当は誰が放蕩息子なのか、誰もが思い当たる弟息子ではなくて、兄息子こそが放蕩息子なのではないかと申しました。 弟が、父親の財産ばかりに目が行って、父親の愛がちっとも見えていなかったとすれば、兄息子こそ、父親の愛が見えていません。 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。 言いつけに背いたことは一度もありません。 それなのに、わたしが友達と宴会をするために、 子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30:ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして 帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 このように不満を並べ立てます。 兄息子は、あたかも、自分が我慢に我慢を重ねて、いやいや父親に仕えていたかのように言います。兄息子は家を出てしまった弟の分まで、父親の愛情を独占していたのに、そんなことはちっとも考えません。兄息子こそ、父親の財産ばかりを見て、その愛を見ていなかったのです。愛が分かりません。 ○ 99匹の羊も同じことです。羊ですから、自分たちをほったらかして1匹を探しに出た羊飼いに不平不満を言うことはありません。ここは、譬え話の限界です。もし羊が口を利いたら、羊飼いを非難したかも知れません。 それはともかく、彼らは99匹です。100匹ではありません。つまり、不完全な存在になってしまったのです。 決定的に欠けた者になってしまったのです。迷子になった1匹のためではなくとも、99匹のためにこそ、羊飼いは、1匹を取り戻さなくてはならないのです。 ○桂枝雀に『始末の極意』という演目があります。以前の説教で紹介したと思いますが、その時は、どうしても演題を思い出せなかったので、改めて触れます。 10人の雇人を持つ、大店の主人が、5人でも仕事をこなせるのではないかと、暇を出します。仕事は回りました。そこで残る5人も追い出し、夫婦だけで店を続けます。今度は自分一人でも出来ると妻を離縁し、あげくは自分自身も無駄だと、風呂敷を担いで出て行ってしまうという落ち子です。吝嗇の極まり、『始末の極意』咄です。江戸では同じ咄が、『しわい屋』だそうです。私が聞いたのは多分『しわい屋』ですが、確認できたのは『始末の極意』です。 ○ この咄と教会とが重なります。教会こそ、あれが無駄、この人は要らないということになったら、みんないらなくなって、最後は牧師が風呂敷を担いで出て行くことになるでしょう。 100匹の羊は、正にこういう話です。1匹が要らない、むしろ邪魔だとなったならば、2匹目も要りません。3匹目も要らないでしょう。次々と要らなくなります。 ○ 5〜6節。 『そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6:家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、 一緒に喜んでください』と言うであろう』 先ほど、こんなことをしたらご名所の人にあきれられる、馬鹿にされるのではないかと、言いましたが、羊飼いは、そのようにせざるを得ないのです。1匹の羊が帰って来たことは、それほどの大きな喜びなのです。 迷子になっていた1匹にとっても、他の99匹にとっても、そして羊飼いにとって。 私たちは、玉川平安教会に1匹が帰って来た時に、このように喜ぶことが出来るか、出来たか、帰って来ることを願っているか、それが問われています。 7節。 『言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』 ○ 8〜10節も一緒に読みました。 1〜7節と、主題は全く同じです。そして、11節以下の『放蕩息子』共同じです。 8節。 『「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、 ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。』 全くこの通りです。ドラクメ銀貨1枚は1タラントと同じです。つまり、労働者1日分の賃金に当たります。今日だと1万円でしょうか、2万円でしょうか。貧しい者にとって大金かも知れません。必死に探します。しかし、何であれ、あるべきものがないことは心落ち着かないことです。それが金銭的には大した価値がなくとも、気になって気になって仕方がありません。それがひよっこり出て来た時は、何とも嬉しいものです。 失せていた物の倍のお金がかかってもお祝いしたくなります。 同じように、ここに居るべき人がいないことを、あなた方は気に掛けているのか、心の痛みとしているのか、帰って来た時に、心から喜ぶのかと問われているのです。 |