日本基督教団 玉川平安教会

■2020年7月12日

■説教題 「闇に輝く光
■聖書  ヨハネ福音書 1章1〜13節 


○ 7〜8年前、クリスマスにふさわしい本を読みたいと思っていた時、古本屋で橋克彦の『聖夜幻想』という文庫本を見つけました。橋克彦のものは全部読んだつもりでしたが、見逃していました。これが汚い本で、何と2冊で100円のワゴンセールでした。買ったものの、あまり汚くて開く気がせず、ほったらかしていましたが、引越に際して、橋克彦を全部捨てようかと段ボール箱に詰めている時に、これだけ読んでいないことを思い出し、『聖夜幻想』だし、一応読んで見ました。捨てなくて良かったという感想です。ついでに、橋克彦の段ボール箱も、保存することにしました。


○『聖夜幻想』というくらいですから、その中に、星の話が何度か出てきます。はっと気付かされたのは、真昼の空にも星は輝いているという話です。夜と同じように星は出ています。ただ、空が星の光よりも遥かに明るいから、人の目には見えないだけです。

 そうしましたら、金子みすずの有名な詩を思い出しました。『星とたんぽぽ』です。

      青いお空のそこふかく    海の小石のそのように

      夜がくるまでしずんでる    昼のお星はめにみえぬ

      見えぬけれどもあるんだよ   見えぬものでもあるんだよ

 真昼の空にも星は輝いているということは、誰でもが知っています。しかし、真昼の空に星を見上げる人はいません。昼の空の星のことは、誰もが忘れています。

 真昼の空に輝く星、それが夜になると見えて来ます。実は私たちは、星の光を見ているのではなくて、星を縁取る闇を見ているのではないでしょうか。私たちが見ているものは、ポジの写真・光景ではなくて、ネガの写真・光景ではないでしょうか。


○ イザヤ書9章2節。

 『暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。

  暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。』

 この箇所は、救い主の誕生を預言しています。クリスマスの預言の中でも最も古いものの一つと言えましょう。としますと、クリスマスとは、暗黒の中で光を見ること、闇の中で希望を見出すことと言って良いでしょう。


○ 紀元前8世紀、イザヤは預言しました。例え、戦争に敗れて国家が滅びるとも、それは真の滅びではない。必ずや、信仰を抱いて、生き残り、新しい国家を形成する者が現れると。しかし、もし、信仰が失われるならば、例え国が生きながらえても、財産が・生命が守られても、そこには絶望がある、滅びがあると。

 もう少し厳密にお話しますと、今、イザヤが預言しているのは、国が滅び人々が絶望に沈んでいる時ではありません。未だ大丈夫だ、国が滅ぶことはないと預言する偽預言者が居り、人々は、むしろ、この偽物の預言者の方に信頼していた、そういう時代です。

 イザヤは、回避することの出来ない逆境を生き延び、新しい時代を切り開く者が現れると預言しているのです。避けることの出来ない滅びと、その滅びからの再生とを、重ね合わせて預言しているのです。


○ 闇を真っ正面から見る勇気がない者には、光は見えません。昼の空を見ても星は見えません。夜の闇を見上げる時に、初めて星が見えてまいります。

 私たちの時代も同じではないでしょうか。私たちの時代にこそ、イザヤの預言が語られなければならないのではないでしょうか。聞かれなければならないのではないでしょうか。

 今日は大丈夫、明日も大丈夫、何の心配もない、安心していなさいと預言することは出来ません。それは単なる嘘でしょう。この偽りの預言を聞いても誰も、本当には安心出来ないでしょう。

 神による裁きがある、滅びがあることを語らなければなりません。

 しかし、闇で全てが終わるのではありません。イザヤは、その未来にあるものを預言しているのです。

 私たちも、時代に下された裁き、私たちの物質主義の文明がもはや行き詰まっている、その延長上に救いはないということを認め、悔い改める時に、初めて、未来を見渡すことが出来ます。闇夜の空に星を見るように、希望を見出すことが出来ます。


○ イザヤ書60章1〜2節。

 『起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。

  2:見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。

  しかし、あなたの上には 主が朝日のごとくのぼられ、

  主の栄光があなたの上にあらわれる。

  国々はあなたを照らす光に向かい 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む』。

 この預言は、イザヤ書9章の預言よりも、150年も後の時代のものです。ここにも、クリスマスが預言されています。

 クリスマスとは、暗黒の中に住んでいた人々が、ようやく、光を見出し、つまり、希望を見出し、光の元に、つまり、キリストのもとに集まってくることです。


○ 私たちは、闇の中に住んでいます。私たちの中には、最早、光は存在しません。闇の中にいて、そこから、光を見ています。

 礼拝するとは、そういうことです。

 自分の中にあるもの、自分の感情や、自分の思想をどんなに見つめても何の解決にも至りません。そうではなくて、眼を上げて、上にあるものを見なくてはなりません。星を見るのです。星の時間の光を見るのです。


○ こんな風に申しますと、何々をしなければ救われないという条件が、もう一つ新しく加えられたと受け止める人があるかも知れません。そういうことではありません。

 全く逆です。最早、自分の力ではどうにもならないことだから、神さまに委ねなさい、そうして心の荷物を下ろしなさいということです。

 自分の努力ではかなわないことだから、神さまに任せて安心しなさいということです。そのために必要なことは、自分の心の闇を、素直に真っ正面から見ることです。

 闇を見つめることが、光を見出すことにつながるのです。


○ ヨハネ福音書9章39〜41節

 『39:イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。

   こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。

 40:イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、

  これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

 41:イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。

  しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」』。

 見えると言い張る所に罪があります。


○ 闇を見つめなければ光が見えないように、罪を見つめなければ救いは見えて来ません。それが、イザヤのメッセージであり、ヨハネのメッセージであり、クリスマスの意味でしょう。


○ 創世記1章1節。

 『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』。

 何かしら、明るい展望がある、その根拠となる数字が存在すると言うのではありません。景気の予測ではありません。数字が根拠ではありません。他のどんなものでもありません。

 根拠は、神の言葉です。『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』。

 そうしてこの世界は始まりました。無から、虚無の混沌から、この世界は始まりました。


○ ヨハネによる福音書1章、

 1節。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった』。

 4節。『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった』。

 5節。『光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった』。

 9節。『その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである』。

 

○ 闇の中から光が生まれる、闇の中で光が輝く、このことが繰り返し述べられています。

 更に14節。

 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

  わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、

  恵みと真理とに満ちていた』

 矢張り私たち人間の世は闇なのです。その闇の中に、キリストは誕生され、それ故に、光り輝きます。もし、私たち人間の世は闇ではないと言い張るなら、きっと、その人にはクリスマスの光は見えないでしょう。


○ 10節。

 『言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった』。

 闇の中に光が射しました。星が輝きました。しかし、その光が見えない人の方が多かったのです。それは、イザヤの時代に、滅びが近づいているという不安・恐怖があったために、決して、闇を見ようとはせず、根拠のない希望にすがりついた人々には、イザヤの声が聞こえなかったのと同じでしょう。聞きたくなかったのです。聞こえなかったのです。

 闇を見つめることは恐ろしいことで、出来るならば目をそらしていたいのが人間です。


○ エーリッヒ・ケストナーの『人生処方詩集』にこんな詩があります。

  … 通行人は みんな とおりすぎる おれが盲目なもので

   おれの立っているのが 見えねえのか

   3時から おれは立っているんだ

 目の前に不幸な人がいても、何も助けて上げられない。その無力さに耐えられず、心の痛みに耐えられない。しかし、人間は極めて効果的な解決方法を見つけ出しました。それは、目を瞑ることです。一切を見ないことです。


○ ナチスが自分たちの思想に合わない本を焼き捨てる焚書の場面を、記録映画で見たことがあります。次々と作家の名前が読み上げられて、その著書が炎の中に投じられます。

 ロマン・ロラン、トーマス・マン、ライナー・マリア・リルケ、アンドレ・ジイド、シュテファン・ツブァイク … 多くの作家は既に亡命していました。ロマン・ロランはスイスに、シュテファン・ツブァイクはブラジルに。

 名前を呼ばれた作家の中で、ただ一人その場面に居たのが、自分の本が焼かれるのを命懸けで目撃していたのが、エーリッヒ・ケストナーでした。


○ 11節。

 『言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった』。

 真っ正面から闇を見ようとしない人には、光は見えません。


○ 12〜13節。

 『しかし、言は、自分を受け入れた人、

  その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

  13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、

  人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである』。

 神を信じる人も、僅かながらいました。闇の中で、光を見る人が居ました。闇の中に居て、闇を見ていたからこそ、光を見た人が居たのです。

 オスカー・ワイルドにこんな台詞があります。

 「人間はみなドブの中を歩いている。しかし、そこから星を見ている人もいる。」


○ 14節。

 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた』。

 『わたしたちの間に』、それは『わたしたちの闇の間に』ではないでしょうか。

 『わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、

  恵みと真理とに満ちていた』。

 あまり詳しい説明をしている暇はありませんが、ヨハネ福音書において、栄光とは、十字架のことです。十字架は、苦難の印です。しかし、苦難は同時に栄光の印なのです。

 『わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、

  恵みと真理とに満ちていた』。

 これは、十字架の出来事と無関係に語られているのではありません。

 そして、私たちも、苦難の中でこそ、闇の中でこそ、クリスマスの光を見ることが出来るし、真に救いを見出すことが出来るのです。


○ ヨハネ福音書は神学的哲学的、更に神秘的という印象があります。それに違いありませんが、しかし、一方で、全く時代に即しています。当時のローマ世界は、少なくともキリスト者にとっては、闇の中にありました。迫害弾圧が厳しく、希望などどこにも見えないかのようです。しかし、彼らは、星を見ていました。闇の中で星を見ていました。ドブの中で、星を見ていました。

 今、世界が日本の国が、そして私たちの教会も、闇に覆われてしまうかのような状況にあります。いつまで、教会を礼拝を守り続けられるだろうと不安になります。未来を思えば思うほど、暗い気持ちになってしまいます。しかし、そこから星を見ることも出来ます。信仰に依って。