日本基督教団 玉川平安教会

■2020年5月10日

■説教題 「律法の本当の意味
■聖書  マタイ福音書 5章17〜20節


○ コリントの信徒への手紙一の15章56節にこうあります。

 『死のとげは罪であり、罪の力は律法です』

 ローマの信徒への手紙5章12〜13節には、

 『このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、

   死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

  13:律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、

  罪は罪と認められないわけです』


○ パウロ書簡だけではありません。福音書のイエスさまのお言葉にも、多数、律法を批判、むしろ否定していると受け取られるものがあります。一々例を挙げたら切りがないくらいです。

 今日の箇所のように、律法を重んじなさいという箇所を挙げる方が遥かに困難です。

 律法の意味・価値を巡って、どうしてこんなにも評価が分かれるのでしょうか。


○ 一番簡単な説明はTPO=時間、場所、目的の違いということでしょう。その時・タイミング、相手、話の流れでは、全く矛盾していると聞こえる場合があります。これは、どんなことにも当て嵌まります。矛盾しているようでも、嘘ではありませんし、どちらが大事で、どちらは些末なことという訳でもありません。これは、どなたも体験すること、知っていることであって、説明するまでもないでしょう。

 ですから、他の箇所と響きが違うと言って、嫌ったり、警戒したりしないで、何しろイエスさまのお言葉には違いありませんから、一語一語、謙虚に聞くことから読み始めたいと思います。


○ 17節。

 『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない』

 『律法』を省略して、

 『わたしが来たのは預言者を廃止するためだ、と思ってはならない』と読んだら、何の抵抗もありません。イエスさまのお言葉には、しばしば預言者の言葉が引用されますし、預言の成就こそがイエスさまの生涯なのだと、私たちは教えられています。

 しかし、『わたしが来たのは律法を廃止するためだ、と思ってはならない』だと、どうでしょうか。先程触れましたように、おや?と思ってしまいます。

 

○ 17節後半。

 『廃止するためではなく、完成するためである』。これはもう、預言者のことと言うよりも、律法のことです。預言者を廃止するということはありませんから、律法のことです。

 18節。

 『はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、

   律法の文字から一点一画も消え去ることはない』

 全く解釈の余地がない言い方で、つまり逃げ道のない言い方で、断言されています。『律法の文字から一点一画も消え去ることはない』、『廃止するためではなく、完成するためである』。


○ 私たちは、漠然とでも、ユダヤ教の律法は時代錯誤的なもので、今日では全く通用しない、イエスさまの時代に既に色褪せたのだと、考えています。

 しかし、今日のマタイ5章では、そんなことは言われていません。全く逆、律法は廃れることはありません。つまり、今日でも、有効であり、今日の私たちキリスト者も、これを重んじ守らなければならないということになります。


○ 19節。

 『だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、

   天の国で最も小さい者と呼ばれる』。

 全く明瞭です。『これらの最も小さな掟を一つでも破ってはならない、まして律法無視・廃棄を人に勧めたら大変なことになると断言されています。

 逆に、

 『しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる』

 これも明瞭です。今日の私たちキリスト者も、これを重んじ守らなければならないし、それを人に教え勧めることこそ、キリスト者の任務だということになります。


○ 更に20節。

 『言っておくが、あなたがたの義が律法学者や

  ファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、

   あなたがたは決して天の国に入ることができない』。

 これは大変なことになりました。

 私たちの感覚から言えば、『律法学者やファリサイ派』は、教条主義的に律法に拘泥しており、極端も極端、実社会の生活には適応しないと、考えています。

 ニューヨークやロサンゼルスのような大都会、現代文明の中心地にも、オーソドックスと言いますか、極端な律法主義者が存在し、神学校もあります。彼らは例えば、律法の規定にあるように、頭髪や髭に剃刀を当てることをしません。その服装といい、一目で、オーソドックスのユダヤ人だと分かります。私たちの目から見たら、その姿形も、生活様式も、奇矯としか映りません。

 そんなことが私たちにも要求されるのでしょうか。

『あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ』

 これが天国に入る条件だとすれば、正にオーソドックスのユダヤ人以外は全員失格、不合格です。


○ さて読み始める前よりも難解になったかも知れません。どこに手がかりを求めたら良いだろうと思い悩みました。そんな時には、前後を読むに限ります。今日の箇所は所謂「主の山上の説教」の一部です。そのことを考慮して読むべきですが、話が大きくなり過ぎるかも知りません。直後の箇所が大いに参考になります。

 21〜26節の箇所です。

 大事ですから、全部読みます。

 『21:「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は

   『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

 22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。

   兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、

   火の地獄に投げ込まれる。

 23:だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、

   兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、

 24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、

  それから帰って来て、供え物を献げなさい。

 25:あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。

   さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、

   裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。

 26:はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、

   決してそこから出ることはできない。」』


○ 簡単に引用の意図を申します。

 イエスさまは、律法を100%守りなさいと言っているのではありません。100点取りなさいと言っているのではありません。

 敢えて言えば、100%でも100点でも、尚、神の国に入るには足りません。

 『殺すな』という律法は守ることが出来ます。戦争時には、この律法を守ることが出来ずに苦悩したキリスト者がいましたが、幸い、今、私たちに「殺せ」と命じる悪は存在しません。この先は分かりませんが。


○ しかし、それだけでは不十分だとイエスさまは言います。

 『兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける』

 『兄弟に腹を立てる』ことが既にして罪ならば、誰もこの罪を免れることは出来ません。

 誰も、100%、100点を取って、神の国に入ることは出来ないのです。


○ 本当に仲の良い兄弟もありますでしょう。

 しかし、ここでイエスさまが仰る兄弟とは、同じ親を持つ血肉による兄弟のことではありません。むしろ、隣人、同胞のことです。隣人、同胞、会者の同僚、その『兄弟に腹を立てる』ことが一度もなかったという人は、いないだろうと思います。


○ 隣人とは誰かという主題で記されたトルストイの本があります。複数の作品にまたがりますし、その作品名を挙げて引用することにあまり意味がありませんので、それらをまとめて、トルストイが誰を隣人と考えているかを記した方が良さそうです。

 隣人とは今、この時に、隣にいる人のことです。それが結論です。当たり前と言うなかれ。人は多くの場合、隣にいる人を隣人とは考えません。隣人とは認めたくありません。嫌いです。そしてもう少し離れた所にいる人を、隣人に選びます。気が合うから、利益になるから、邪魔にならないから、いろんな理由がありますが、隣人を選びます。

 私にふさわしい存在、好ましい存在、そして遠い存在ではない人、これが隣人です。


○ イエス様はこのような隣人を愛しなさいと言ったのでしょうか。そうではありません。

 次週の説教箇所になります。マタイ福音書5章43〜44節。

 『「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

 44:しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』

 敵も、『自分を迫害する者』も隣人なのです。


○ 人ではなく国や民族に置き換えた方が解りやすいかも知れません。

 隣国とはどこか。これは実に明確です。地理的に隣の国のことです。日本から見れば、近い順に韓国、北朝鮮、中国、ロシア、台湾がうんと近い国です。その次は東南アジアの諸国でしょう。アメリカは太平洋をまたいで隣と言えば隣ですが、ちょっと無理があります。

 しかし、隣国必ずしも隣人ではないようです。少なくとも良き隣人ではありません。そして、もっと遠くの国々に親しみを覚えたり、好感を持ったりします。

 遠交近攻という言葉があります。『史記』に起源を持つそうです。簡単に言えば、遠くにある国と良き交りを持ち、近くにある国を攻めるということです。国と国との間でも、会社の中でも、商売の上でも起こることでしょう。


○ 私たちは兄弟を愛する根拠を挙げることが出来ますし、実際にその根拠に依って、兄弟を愛しています。

 しかし、兄弟を憎む根拠ならば、愛する根拠の10倍も数えることが出来ます。そして、兄弟を憎んでいます。これが人間の現実です。

 誰も、律法を全う出来ないのです。


○ 話が飛躍して、次週の箇所に入り込んでいますので、本日の箇所に戻します。

 17節をもう一度読みます。

 『「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。

   廃止するためではなく、完成するためである』

 『律法や預言者を廃止するため』ではありません。しかし、ファリサイ派的な教条主義的律法遵守を取り戻すことが目的でもありません。『完成するためで』す。

 律法の完成とは、隣人を隣人とし、敵をも愛することです。

 『隣人を自分のように愛しなさい』元々はレビ記19章17〜18節です。

 『あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、

  彼のゆえに罪を身に負ってはならない。

  18.あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。  あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である』

 

○ 『あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない』つまり、この戒めも、同じイスラエルの人々の間のことです。しかし、これが難しいのです。同じ民族の中で争うのが、人間の現実です。隣人の中から隣人を選び、隣人の中から敵を定めるのが人間です。

 トルストイの断片集、私が持っている本では『男と女』という題でまとめられている本に、こんな言葉があります。

 『人は万人を等しく愛すべきである。しかし、等しく万人を愛することは出来ない。だから、たった一人を愛すべきである』


○ 『隣人を自分のように愛しなさい』、これを100%実践された方は、イエスさまだけでしょう。

 これを言い換えれば、律法を100%実践された方は、イエスさまだけです。

 また言い換えれば、『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない』となります。『廃止するためではなく、完成するためである』

 十字架こそが、律法を完成する業なのです。