○ ヨセフの物語は、良く良く知られた話ですので、ここで粗筋をおさらいすることはせずに、必要に応じて最小限のことだけを、その都度取り上げてまいります。 18節。 『兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、 ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、19:相談した』 何と、血の繋がった兄たちによって、ヨセフ殺しが企まれます。ヨセフが何故そこまで憎まれたのか、その理由は19節で分かります。 ○ 19節。 『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る』 今日の箇所の段落にはもっと詳しい理由と言いますか、いきさつが記されています。よく知られた物語だと申しました。端折って言いますと、ヨセフは父ヤコブの偏愛を受けました。他の兄弟には与えられないような上等の着物を着せられ、重労働は免除されていました。父の偏愛が、妬みを誘いついには憎悪にまでなったのですが、それと共にもう一つのより重大な理由が上げられています。つまり、ヨセフは兄たちが自分に仕えることになるという夢を見、それを正直に語りました。無邪気だったのでしょう。兄たちの妬み、憎悪は、ついに殺意にまで育ってしまいました。それが『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る』という言葉に良く現れています。 ○ 父ヤコブは何故にヨセフを偏愛したのかということに触れると、全然別の説教をしなくてはならなくなりますので、今日は取り上げません。ただ、このことだけを申し上げておきます。ユダヤ人は神の特別な愛故に、他民族に憎まれました。偏愛と言えば偏愛です。そして、キリスト者もまた、同じ理由で異邦人に憎まれました。偏愛と言えば偏愛です。 他の信仰を持つ者には、キリスト者の思い上がりだとしか映らないでしょう。これは仕方がありません。神の愛を否定出来ませんし、隠すこともなりません。神が私たちを愛して下さるというのは、思い上がりに聞こえようとも、私たちの信仰の内容そのものであって、これは、一歩も譲ることは出来ません。 『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された』ヨハネ3章16節は、私たちの信仰の内容そのものです。但し『世を』であってキリスト者のみとは言っていません。 ○『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る』 この言葉がまた、殺意に直結しています。自分たちが見ることの出来ない夢・幻を心に抱く者がいると、それを憎む者が出ます。 イエスさまはこの夢・幻の故に殺されたのだとも言えます。 最初の殉教者ステファノもそうです。使徒言行録7章55節以下。 『ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、 神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 56:「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 57:人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、 58:都の外に引きずり出して石を投げ始めた』 ステファノは幻を見、それをそのままに語ったがために殺されたのです。 同様の例は他にも沢山あります。 ○ 創世記に戻ります。21〜25節には、何とかヨセフの命を助けようとした長兄ルベンのことが記されています。長兄ですから、それだけの権限も説得力もある筈です。長兄らしい分別もヨセフへの同情も持っていました。だから助けようとするのですが、弟たちを諫めることが出来ません。結局言いなりになります。 似たような人が、イエスさまの十字架を巡る出来事にも登場します。ローマの総督ピラトです。彼は、イエスさまの無実を知っていました。十字架に架けることが理不尽だとも考えました。イエスさまの命を救う権限も持っていました。しかし、混乱更に暴動になることを怖れ、ユダヤ人のいいなりになりました。 そう言えば、マタイ福音書27章18節、ピラトについて語っています。 『人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである』 イエスさまの十字架を引き起こしたのも、妬みが理由でした。 そう言えば、この箇所の続き。マタイ福音書27章19節。 『一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。 「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、 夢で随分苦しめられました』 ここでも夢です。ルカはもっと詳しくこの夢について記したいます。しかし、この夢は、役には立ちません。公に語られることがなかったからです。 ○ 創世記に戻ります。26節。 『ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。 27:それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。 あれだって、肉親の弟だから。」兄弟たちは、これを聞き入れた』 何と言う偽善でしょう。ユダは、弟を助けたくて言っているのではありません。ある意味、殺すよりも酷いことを企んでいます。奴隷に売り飛ばそうとするのです。勿論お金のためです。しかし、その醜い欲を、『弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから』、こんな偽善で誤魔化しています。 兄弟に対して悪をなすことは赦されざる罪でしょう。しかし、この偽善は、殺人よりももっと重い罪かも知れません。 ○ ところで、この人はユダです。これは偶然で片付けられるでしょうか。 ヨハネ福音書12章3〜6節を引用します。 『そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、 イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 4:弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 5:「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 6:彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。 彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである』 創世記のユダと、ヨハネ福音書のユダと、重なり合います。もしかしたら、ヨハネ福音書は創世記を意識して、この場面を描いているのかも知れません。 ○ ところで、イスカリオテのユダには不思議な人気があります。多くの文学者が、ユダの肩を持ちます。ユダが救われないなら、自分も救われないとまで言った神学者もいます。 アナトール・フランスは、『エピクロスの園』で、ユダを信奉するユダ教徒の歴史に触れています。どんなにユダ人気ユダ信仰が根強いかを語っています。 私には全く理解出来ません。ヨハネ福音書がイスカリオテのユダを、『盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである』と言い切り、彼の偽善を暴露しているのに、何故ユダをかばうのでしょうか。私には全然理解出来ません。 私も、お金の欲に捉えられた人を、それだけの理由で憎みはしません。しかし、その欲を誤魔化し、偽善を言う人、自分の欲の故に、他人を中傷誹謗する人は赦すことが出来ません。自分の欲を誤魔化すために、嘘を言う人は許せません。 私は何度かそんな目に遭いました。その話をしても聞く人は愉快ではないでしょうし、話す私も不愉快なだけですので止めます。しかし、そんな体験に思い当たる人はありますでしょう。 ○『兄弟たちは、これを聞き入れた』 これも酷い偽善です。ユダよりも酷い偽善かも知れません。 『弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから』この提案に賛成したのならば、いっそ、殺すことそのものを止めなければならないでしょう。彼らが本当に賛同したのは、命を助けることにではなく、 『弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。 27:それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか』 兄弟を奴隷に売ってお金を貰うことに賛同したのです。それ以外ではありません。 ○ 28節。 『ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、 銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった』 この出来事は何を意味するのでしょうか。私は、神さまが狡い兄弟たちを助けたと考えます。結果的に、兄弟たちは、ヨセフを売らずに済みました。兄弟を売ってお金に換えずに済みました。もし、本当に売っていたら、彼らに救いはありません。兄弟を売ってお金に換えた者には、赦しも救いもありません。結果的にではありますが、彼らはこの罪を犯さずに済みました。 ○ 29〜30節。 『ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった。 ルベンは自分の衣を引き裂き、30:兄弟たちのところへ帰り、 「あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか」と言った』 何て情けない人でしょう。愚図だから、決断が遅いからと批判するのではありません。 せっかく正しい結論に辿りつきながら、それを言わないからです。本当は長兄たる者の責任です。他の兄弟を諫めなければなりません。しかしそれをはっきりとは言いません。 『ルベンが穴のところに戻ってみ』たのは、もしかするとヨセフを助けるためだったのかも知れません。しかし、そのことで自分を正当化することは出来ません。長兄としてなすべきをことをしていません。何より、他の兄弟たちに、はっきりと主張していません。「お前たちは、間違っている」と。「お前たちは、間違っている」と言わないことは時に重大な罪です。 まるで悪質ないじめが存在する教室で、それを見て見ぬふりをする優等生のようです。実は、ルベンが一番狡いかも知れません。 『わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか』 彼が心配しているのは自分のことです。ヨセフはどうなったのかと、まず心配すべきなのに、『わたしは、どうしたらいいのか』です。何て情けない人でしょう。 私も何度かそんな目に遭いました。その話をしても聞く人は愉快ではないでしょうし、話す私も不愉快なだけですので止めておきます。しかし、そんな体験に思い当たる人はありますでしょう。 ○ 31〜32節。 『兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。 32:彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、「これを見つけましたが、 あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください」と言わせた』 もうどうしようもありません。何という卑劣な行為でしょうか。赦されざる行為です。 誤魔化しました。全てを誤魔化し、全てをなかったことにしてしまいました。ヨセフが死んだという事実は捏造しましたが、自分たちの悪事は、自分たちの悪だくみは全て隠蔽してしまいました。それも、父を騙すという仕方で。 ○ 34節。 『ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ』 この様子を、父の悲嘆を、兄弟たちはどんな気持ちで見ていたのでしょうか。少しは罪意識を感じたのでしょうか。それとも、ますます嫉妬心を募らせ、自分たちのしでかしたことを、正当化したのでしょうか。何故か何も記されていません。 ○ 35節。 『息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ』 『慰められることを拒んだ』実に生々しい表現です。子どもを失った親の気持ちです。慰められたくなどありません。この悲しみは、癒やされようがないし、誤魔化すことなど出来ません。悲しむだけ、悲しむしかありません。悲しめるだけ悲しむしかありません。 ところで、ここに母親であるラケルは出て来ません。何故でしょうか。普通に考えれば、ラケルの悲しみは、ヤコブ以上に深いだろうと思います。比べるのもおかしいかも知れませんが、ヤコブには12人の子どもがありますが、ラケルには二人だけです。ラケルにとっては長子です。しかしこの場面にラケルのことは触れられていません。 この辺りに旧約聖書の男性優位主義を見、批判する人がいます。しかし、見当違いです。何故なら、ここに描かれるヤコブの悲しみは、神さまの悲しみを表現しているからです。 それだけではありません。ヨセフへの偏愛、これは神さまが特別にイスラエルを愛されたことを象徴しています。全て神さまの愛、神さまの感情がヤコブに投影して描かれているのです。この話をすると際限なくなりますので、ここに留めて本題に戻ります。 ○ 35節後半。 『「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」 父はこう言って、ヨセフのために泣いた』 当然この表現も独りヤコブのものではなく、神さまの嘆きが重ねられています。私たちキリスト者は、当然、この言葉とイエスさまが十字架に架けられて殺され、アリマタヤのヨセフとニコデモとによって葬られ、使徒信条の表現に依れば『陰府にくだ』った出来事とを、重ね合わせて読まなくてはなりません。 『陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり』さらっと読んではなりません。これは陰府に一泊二日の旅をして来たという話ではありません。 私たちには、神さまの感情など想像も出来ません。しかし、ヤコブのそれなら想像出来ます。そのことを考えさせるために、このヤコブの悲しみが描かれているのだと考えます。 ○ 36節以下、物語はエジプトに舞台を移して、めまぐるしい展開を見せます。そして、最後の最後になって、全てが神さまの意思によるもので、遠大なイスラエル救済の計画があったことが分かります。これもイエスさまの十字架の物語と同じです。その点では、ヨセフ物語のユダも、12弟子の裏切り者ユダも、この物語に欠かせない登場人物ではあります。 しかしそれでも、彼らの行為は許されざる行為に違いありません。 |