日本基督教団 玉川平安教会

■2020年11月29日 説教映像

■説教題 「金持ちとラザロと天国と
■聖書  ルカによる福音書 16章19〜31節 




○ この譬え話の主題は、後半部にあります。しかし、前半は単に後半のお膳立て、舞台設定に過ぎないかと言いますと、必ずしもそうではないと考えます。前半は分量的には、ごく短いのですが、内容的に重要だし、単なるお膳立てを超えて、この話自体が、重大なメッセージを持っていると思います。

 そのメッセージとは、所謂因果応報論の否定です。

 まず因果応報論とは何かということから、順にお話しします。


○ ユダヤ教の説話の中に、今日の物語の下敷きになった話が、しかも、複数あるそうです。更に、遡上れば、この話は、エジプトに起源を持つと言われています。そんな話をしなくても、仏教の説話にも、日本の物語にも、似たようなものを見付けることが出来ます。

 これらの物語は、一口に言えば、因果応報論を説くものです。


○ 金持ちと貧乏人の違い、この世界で富み栄える者と、飢え・病に苦しむ者との違いは、全て神の御心に因って起こるものであり、表面的には、理解出来ない場合、説明がつかない場合でも、そこには、隠された理由が存在するというのが、ユダヤ教の説明であり、これ即ち、因果応報論です。それが、当時のユダヤ教の常識です。日本人にとっても、お馴染みの思想です。ユダヤ教の神が、仏様に置き換わるだけです。


○ 因果応報論、しばしば典型的な例として取り上げられるのは、こういう話です。

 ある家で、不幸が相次いだとします。そうしますと、あの家の旦那は因業な奴だから、その報いだと指摘されます。しかし、旦那も他の家族も好人物だとなると説明がつきません。そうしますと、あの旦那も奥さんも良い人だけど先代は酷かったという話になります。その先代も良い人だと、実は隠れて悪いことをしていたのだとなります。更には、何代か前のご先祖が、庭に迷い込んで来た犬を打ち殺した、その祟りだとなります。これが因果応報論です。

 不幸の原因を上手に、時に無理矢理にでも説明するのが、因果応報論です。それで人々は納得します。この説明がないと、心が落ち着かないからです。

 因果応報論は、不幸の原因を説明しますが、しかし、不幸な人を救いはしません。むしろ、自己責任、或いはご先祖の責任だとして、結果、苦しむ人の傷に塩を塗り込みます。これが、因果応報論の正体です。


○ ヨハネ福音書9章1〜3節。

 『1:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

  2:弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、

   だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

  3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。

   神の業がこの人に現れるためである。』

 弟子たちの質問が、そもそも因果応報論に基づくものです。弟子たちは、『生まれつき目が見えない』ことに同情したのでしょう。誰もがそうですが、不幸な人、惨めな人を見ると、同情します。もっと正直に言うと、心が騒ぎ、落ち着きません。そこで、質問しました。納得するためです。納得とは、これこれの理由で彼は『生まれつき目が見えない』のだよ、更に、だから彼の不幸は仕方がないのだよと言う説明を聞きたいのです。

 弟子たちに答えて、イエスさまは、はっきりと因果応報論を否定されました。今日は、そのことだけ言いたいと思います。

 『神の業がこの人に現れるためである』というお言葉について触れていると、長くなりますし、全然別の主題になってしまいます。どうしても知りたいと言う方があれば、この箇所を3年前に読んでおりますので、その時の説教原稿をお渡し出来ます。


○ 今日では、因果応報論を主張する人は少ないと思います。先ほど漫画的なまでに簡単に説明した因果応報論を、成る程と受け入れる人はないと思います。しかし、依然として、この思想は、私たちの中に息づき、根を張っています。

 今日では、これを自己責任と呼びます。自己責任ならば、当然そうだと受け入れる人が多いでしょう。これも漫画的に分かり易く言えば、このようになります。

  … 小学校、中学校と怠けてちゃんと勉強しなかった。だから、良い高校大学には入れない。その結果、安定した企業にも就職出来ない。結果、コロナ禍で職を失い、路頭に迷うことになる。全て自己責任だ。 … こういう話です。

 負の連鎖などとも言われます。幼児期に虐待された人は、自分が親になって、我が子を虐待する。貧困家庭に育つと、教育が十分受けられず、新しい貧困家庭を生み出す。 … 本当かどうかは分かりませんが、そんなことが言われます。

 そして怖いのは、だからこの連鎖を破るためには、外からの手助けが必要だとなるなら良いのかも知れませんが、そうではなくて、自己責任、親の代に遡っての自己責任が追求されます。結果、彼が貧しいのは仕方がないになってしまいます。

 結果、直ぐ近くに貧しい人がいても、ホームレスと呼ばれる人がいても、苦しんでいる子供がいても、仕方がないと逃げることが出来ます。

 自己責任という言葉の正体は、これではないでしょうか。そして、それは、そのまま新しい因果応報論ではないでしょうか。


○ 私は、普段、説教で政治や社会を論じないことにしています。今日はちょっとはみ出したかも知れません。私の考え方は、どうでも良いとして、イエスさまは、因果応報論について何と仰っているでしょうか。

 明確に、『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない』と仰っています。そして、今日の箇所の後半部に入りますが、貧しく惨め極まりない人生を送り、そして死んで行ったラザロは、天国にいます。

 『毎日ぜいたくに遊び暮している金持』は、同じく死んで、今は地獄にいます。

 この事実自体が、因果応報論の否定です。

 イエスさまの比喩の中のことでしかありません。しかし、だからこそ、これはイエスさまのお考えであり、イエスさまが因果応報論を否定していることが分かります。


○ 私たち現代日本のキリスト者には、ちょっと理解に余りますが、聖書時代のユダヤ人は、その人が金持ちなのは、神さまの祝福を受けているからで、祝福を受けられるのは、信仰を持っているからだと考えていました。

 実に単純ですが、分かり易く、当時の人々はそのままに受け入れていたと思います。日本だって、つい最近まではその通りです。今だって、変わらないかも知れません。富貴は信仰の結果なのです。貧乏は不信仰の結果なのです。

 そんな馬鹿なと、現代日本のキリスト者なら思いますが、世の人の考えは、むしろ当時のユダヤ人に近いのではないでしょうか。

 キリスト者であっても、この頃良く話題になりますが、アメリカ南部の福音派を自称するクリスチャンは、これに近いのではないでしょうか。 … また、社会問題になってしまいますので、止めておきます。


○ イエスさまは何と仰っているか、後半の物語は進みます。

 金持ちとラザロの位置関係は、私語の世界に於いて全く逆転します。それは、即ち、現世の位置関係が、必ずしも、神の隠された御心に基づくものではないからだと仰っているのです。

 後半は、前半の主題を引き継ぎながらも、新しい展開を見せます。

 物語を追って見ます。

 …金持は、五人の兄弟のもとへラザロをつかわして警告してくださいと願います。アブラハムは『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』と答えます。金持は、『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』と食い下がります。

 しかし、31節。

《アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、

  たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』》。


○ 先ず、ちょっと細かいことを申し上げます。譬話を読むのに、作者が本来意図していないことまで読んでしまうのは間違いなのですが、敢えて申し上げます。この金持ちは、自分自身の救いを諦めざるを得ない状況下で、せめて、兄弟を救いたいと考えています。このことだけからしても、彼は決して悪党ではありません。

 また、19節。

  『ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。』

 これをもって、彼を悪党だと決めつけられますでしょうか。どうしても、彼を悪党にしたい、そうしなければ、この箇所を理解出来ないし、自分の心も安らわない、そういう読み方は、因果応報論から自由になってないことから起こります。

 この後半部の主題は、何故金持ちは地獄から救われないのか、という所にはありません。何故彼が地獄に落ちたのか、ということさえ、主題とは関係ありません。

 ルカによる福音書は、その辺りのことには、とんと無関心、無頓着です。


○ 後半部の主題は、このことです。

 来世のことを考えず、そのための備えもしないで安穏としている者がいます。そんな人に、どうしたら、警告を発することが出来るのか、答え、既にそれは行われている。これです。

 預言者が歴史を通じて何度も神さまから遣わされ、十分な仕方でそのことを語っている、預言者が説いた以上の仕方で、それを行うことは出来ないし、他にどんな人がどんな仕方で説いても、結局、人は何も聞かないだろうと、こういうことです。

 同様の趣旨を持った話は、福音書に何度も出て来ます。最も代表的なのは、葡萄園と農夫の譬えでしょう。ルカ福音書ですと20章になります。

 農園の持ち主である主人つまり神は、収穫を得るために僕つまり預言者を農園に送ります。しかし、農夫たちは収穫を捧げることを拒み、僕・預言者を追い出します。そこで主人は一人息子を送ったなら流石に言うことを聞くだろうと遣わしますが、農夫たちは息子を殺せば農園は自分のものになると考えて、息子つまりイエス・キリストを殺してしまいます。

 神さまは預言者を何人も何度も送り警告を繰り返して来たのに、ユダヤの民は、それを聞かなかったのだという譬え話です。ラザロの話と基本同じことです。


○ さて、この箇所を読む時に、どうしても考えないではいられないことがあります。つまり、ルカによる福音書は、イエスさまを、革命家のように見ているのかということです。イエスさまは、貧しき者、即ち、プロレタリアートによる革命を是とする立場なのかということです。確かに、そんな風に見える所もあります。それは否定出来ません。しかし、当時の社会情勢を、全く現代に当てはめることは乱暴です。

 何より、イエスさまは、地上に於いて神の正義を打ち立てるためには、富める者つまり悪しき権力者を追放し、その権力を奪還しなければならないなどとは、言っていません。

 では、来世に全ての望みを託すのか、そんなことも言っていません。


○イエスさまの譬えで、肝心なことは、現世の富、地位は、究極の魂の救いに何の役にも立たないという点です。

 因果応報論が、富と地位の絶対視、これへの拘りから生まれるものならば、革命もやはり、富と地位への強い拘りから、生まれるものです。イエスさまは、それから、自由になることを勧めているのです。


○ 富と地位をもって天国の椅子を買い取ることは出来ません。逆に、天国に、富と地位を求めることも出来ないことです。

 富める者が、富と地位にすがりついて、これを道具・手立てとして、救いを買い取ることは出来ないし、逆に、貧しき者も、これに執着している限りは、救いを得ることは出来ません。


○ 元に帰って、この譬話全体の主題、結論がどこにあるのかということを読みたいと思います。

 最初に申しましたように、それは、前半部、後半部それぞれの主題と、無関係ではありません。そこで、もう一度、それぞれの結論に当たることを、繰り返して整理してみたいと思います。

 前半、この地上に於いて、富み栄えているからといって、それが、神さまの御心によるとは限りません。従って、富と栄えとは魂の究極の救いには結び付きません。比喩の中の金持ちは、地獄に落ちました。逆に、貧しくとも、病を負って苦しんでいるからといって、全く悲観することはありません。

 ラザロは、天国に入れられました。どちらの場合でも、こと魂の救いを得るという目的地に向かっての旅に於いて、同じスタート地点に立っています。これが、前半部分の主題です。

 そして、後半部、誰に対しても、等しく預言者の言葉が語られています。究極の救い、魂の救いを得るための手掛かり、そしてチャンスは等しく与えられています。これが、後半部分の主題です。


○ 勿論、この二つを合わせたものが、全体の主題です。預言者を通じて与えられている神の言葉に聞き従うこと、ここに、全き救いの道が用意されているのであり、これ以外に救いの道はありません。これを私たちに当てはめれば、聖書に聴き、イエスさまに聞き従う、これ以外にはありません。