日本基督教団 玉川平安教会

■2020年7月19日

■説教題 「この人は神の子だった
■聖書  マルコ福音書 15章32〜41節 


○ 三要文の学びを続けています。先週からは使徒信条を踏まえ、これにふさわしいと思われる聖書箇所を上げています。

 今朝は、使徒信条の2行目、『我はその独り子、我らの主、イエス・キりストを信ず』が該当します。これを正しく、詳しく解説しようと試みたら、一回の説教では、とても足りるものではありません。1年がかりでも時間的に不十分でしょう。もしかしたら、私たちは一生を掛けて、ただこのことを学び続けているのかも知れません。『我はその独り子、我らの主、イエス・キりストを信ず』これは、他の項目と一緒に、私たちの信仰のもっとも基本的な信条である使徒信条をなしていますが、私たちの信仰・信仰告白の一側面ではありません。私たちの信仰・信仰告白の全体でもあります。

 これからも、毎週毎週、ただこのことを学び続け、心に刻みつけるのが礼拝だという前提に立ちながら、今日は、マルコ15章32〜41節に限定して読みたいと考えます。33節からではなく、32節からなのには、理由があります。しかし、今特に説明しなくとも、自ずと合点頂ける者と思います。


○ 39節。

 『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。

  そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、

  「本当に、この人は神の子だった」と言った』

 この表現が心に引っかかります。何十年も読み聞き続けている箇所ですが、心に棘のように刺さって、抜けることはありません。

 「まことに、この人は神の子であった」。イエスさまが十字架に架けられる場面で、このように言われているのですから、誰が言ったにせよ、これは単なる感想のようなものではなくて、一種の信仰告白です。

 極めて短く凝縮された信仰告白です。その信仰告白をした百人隊長とは何者かということは後に申し上げることと致しまして、百人隊長は、一体何を見て、或は何を聞いて、「まことに、この人は神の子であった」と言ったのでしょうか。

 注釈書を見ますと、こんなことが書いてあります。

… この「神の子」は定冠詞を伴っておらず、単に「神的な人物」という程の意味で使われているのであって、厳格な神学的意味での「神の子」とは区別して受け止めなければならない …

 しかし、その場合でも疑問は同じです。

 百人隊長は、一体何を見て、或は何を聞いて、「本当に、この人は神の子であった」と言ったのでしょうか。

 新約学者でも何でもない私から言わせれば、定冠詞云々は、あまり、否、殆ど意味がないと思います。何しろイエスさまが十字架に架けられ命を引き取る場面です。マルコ福音書の中でも、決定的に重要な場面です。その場面で、百人隊長が言ったのです。「まことに、この人は神の子であった」この言葉に意味がない筈がありません。深い深い意味が込められていると思って読まなくてはなりません。


○ 百人隊長が直接に目撃した可能性が高いのは、15章22節から後の出来事です。拡げれば、15章1節から直接に見聞きした可能性がありますし、それ以前の出来事も考慮に入れて良いかも知れません。しかし、『このように息をひきとられたのを見て』という表現に拘るならば、15章33節以下の場面になります。

 15章33節以下に、「本当に、この人は神の子であった」と言わしめるような何事があったと言うのでしょうか。33節でしょうか。

 『昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ』

 突然、『全地は暗くな』りました。異常現象です。この当時の人々は、日食をどの程度まで知っていたでしょうか。知識はあまりなかったと思います。勿論、知っている人もいたでしょう。いずれにしろ、突然、『全地は暗くな』ったなら、大騒ぎだったと想像します。大騒ぎになって当然です。

 しかし、そのことで人々が仰天したとは、記されていません。天変地異が起こったと解釈することは無理です。『全地は暗くなっ』たとマルコが表現したのは、その時の気象状況を報告したのではなくて、イエス・キリストという地の光が消えたことを表現しているのでしょう。

 人々はそのことに気が付きません。地の光が消えたことを、重大事だとは思っていません。

 

○ 37・38節でしょうか。

 『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

  すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた』

 この後に、『このように息をひきとられたのを見て』と続くのですから、一番普通に解釈すれば、『神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた』この出来事こそが、「まことに、この人は神の子であった」と言わしめたとなります。

 しかし、『神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた』のは、エルサレム神殿内の出来事です。外の者には分からない筈です。

 少なくとも、今ゴルゴダの刑場にいる百人隊長には、見えません。百人隊長がその出来事を知るのは、何十分後でしょうか。何時間後でしょうか。そもそも、エルサレム神殿の中の出来事が、百人隊長に報告されるでしょうか。


○ それでは、39節そのものでしょうか。

 『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。

  そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、

  「本当に、この人は神の子だった」と言った』

 しかし、『このように』とは何を示すのか、矢張り分かりません。

 37節でしょうか。

 『イエスは大声を出して息を引き取られた』

 あまりピンと来ないどころか、これは、あり得ません。


○ 芥川龍之介にこんな短編があります。

 武家のご婦人が、キリスト教に出会い、心惹かれます。牧師の話を聞きに熱心に教会に通います。しかし、イエスさまの十字架の場面に躓きます。特に『エリ・エリ・ラマ・サバクタニ、なんぞ我を忘れ給いしか』という言葉に、これは、男子たる者の最後の言葉にふさわしくないと言って躓きます。

 常時戦場、常に死に向かい合い、敢然として死を受け入れるのが、武士です。『エリエリ・ラマ・サバクタニ、なんぞ我を忘れ給いしか』これは侍の最後にふさわしくありません。

 百人隊長も侍ではありませんが、武人です。『イエスは大声を出して息を引き取られた』この事実に躓き、「この人は神の子ではなかった」と言うのが、むしろ自然な反応で、『本当に、この人は神の子だった』と考える筈がありません。


○ 結局、特定することは困難なようです。

 百人隊長かどうということを忘れて、私たち自身は、『このように息をひきとられたのを見て』という表現から、イエスさまの死の全てを、イエスさまの出来事の全てを思い起こしながら、『本当に、この人は神の子であった』と言います。

 百人隊長の言葉も結局同じではないでしょうか。イエスさまの死の全てを、イエスさまの出来事の全てを思い起こしながら、『本当に、この人は神の子であった』と言ったのではないでしょうか。


○ ここで百人隊長とは何者かという所に話を戻します。

 福音書の中に、百人隊長と呼ばれる人は何人も登場します。一人目は、その僕の病気を癒やされたカペナウムの百人隊長です。名前は記されていません。彼は、ユダヤ人のために会堂を寄進しており、ユダヤ教への改宗者でした。

 次に使途言行録のコルネリオ。彼はペトロの宣教によってキリスト教に入信した最初の異邦人回心者でした。それから、エルサレムに駐在して治安に当たっていた無名の百人隊長。

 ユリアス、彼は近衛隊の百人隊長で、パウロのローマ護送の任に当たり、パウロに対し寛容な接し方をしました。

 そして勿論、今日の箇所の、イエスの十字架に立ち会ってローマ兵を指揮した百人隊長。彼の名は外典ではペトロニウス、またロンギヌスとも呼ばれています。

 十字架の以降に登場する者はともかく、最初の二人と今日の箇所とを含めて、福音書に登場する3人の百人隊長はしばしば混同されます。私たちは、百人隊長についても、十字架の出来事についても、4つの福音書を混ぜ合わせ、一緒くたに読み、混合して考えてしまいます。

 例えばマグダラのマリヤなどについても、同様の混同が起こります。聖書中に何人ものマリヤが存在しますが、それぞれ別人なのに、エピソードを重ねて、一人の人物像に作り上げてしまいます。

 このような読み方は、厳密な聖書解釈としては間違いでしょう。しかし、信仰的にはどうでしょうか。それで良いのかも知れません。その読み方の方が正しいかも知れません。

 

○ さて前置き、前準備が徒に長くなりました。結論部分を申し上げることに致します。そのために、少しだけ前の箇所をご覧いただきたいと思います。30〜31節です。

 『十字架から降りて自分を救ってみろ。」

 31:同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、

  代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない

  メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。

   それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった』

 他の機会に申し上げていることですが、本来イエスさまを罵る意図を持ったこの言葉は、しかし、イエスさまを、実に正確に表現しています。イエスさまは、正に、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない』方です。もっと厳密に言えば、『他人を救っても、自分自身を救うことはなさらない』方です。

 29〜30節、

 『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。

  「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

 30:十字架から降りて自分を救ってみろ。」』

 人々はこのように言いますけれども、もしここで超能力を発揮して十字架からおりてしまったならば、それはもうキリストではありません。何故なら、26節、

 『罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった』

 この十字架こそ、「ユダヤ人の王」世界の真の王が座るべき玉座だからです。

 人々は、ローマの兵隊たちは、自らはそれと知らず、イエスさまに紫の衣を着せ、茨の冠を被せ、十字架という玉座に座らせて、「ユダヤ人の王」世界の真の王として即位させる儀式を執り行ったのです。


○ つまり、十字架の出来事は、「ユダヤ人の王」世界の真の王の即位式であり、ここに、神の国が、神の国の統治が始まったのです。

 マルコ福音書の主題の一つは、王キリストということにあります。イエスさまが王として即位するまでの物語です。そのクライマックス、王としての即位式が、この15章なのです。 


○ 最後に、もう一度38節に戻ります。

 『すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた』

 『すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた』とは何を意味するのでしょうか。神殿の幕とは、至聖所と俗世間とを隔てるものです。至聖所とは、神への犠牲が捧げられる場所です。ですから、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』とはイエスさまが十字架に架けられたゴルゴダの丘が、神への犠牲が捧げられる場所となったということです。至聖所と俗世間とを隔てるものが無くなったということであり、即ち至聖所となったということです。

 そして、至聖所は神の領域です。神の国に属するものです。ですから、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』とは、神の国が、この世界の中に拡がって来たということです。

 つまり、約めて言えば、イエスさまの十字架の出来事によって、神の国が始まったのです。


○ 昨年、マルコ福音書16章の所謂虚ろな墓の箇所を聖句として、『終わりから始まる』という題で説教しました。墓も、十字架も、終わりでありながら、同時に始まりです。神の国が始まったのです。

 『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

 38:すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

  39:百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。

  そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、

  「本当に、この人は神の子だった」と言った』

 百人隊長は、何より、神の国の始まりを見たのです。


○ 百人隊長の他にも、同じ場面同じ光景を見ていた人がいました。しかし、その人々には、何も分かりません。何も見ていません。

 『昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた』

 その事実にさえ気が付きません。イエス・キリストという希望の星が失われたことに気付きません。人々には見えません。

 ところで『本当に、この人は神の子だった』とは、絶望の言葉でしょうか。そう受け止めるのが自然かも知れません。百人隊長は、神の子が死んだことを知ったのです。

 しかし、これは希望でもあります。神の子がいたのですから、この時代に、この場所にいたのですから。

 私たちの時代でも同じことです。主の十字架の出来事は、誰の目にも明らかではありません。失われたものが見えない人が大多数かも知れません。しかし、『本当に、この人は神の子だった』と十字架の出来事を悼む者には、やがて、光が射して来ます。イースターの光が見えてまいります。『全地は暗くなり』が見えた人にだけ、光が見えてまいります。