日本基督教団 玉川平安教会

■2020年2月16日

■説教題 「主は我らの救い」
■聖書  エレミヤ書 33章14〜22節


○ 間もなくカーニバルの季節になります。今年は受難節 = レントが2月26日から始まります。そうしますと、その直前がカーニバルですから、2月25日乃至は、その前の数日がカーニバルになります。年々盛んになるようですから、今週にはもうカーニバルのニュースが届くかも知れません。例年の如く、リオデジャネイロやニューオリンズのお祭りの様子が、放映されることでしょう。

 浅草のそれは、いつかと思いネットで調べましたところ、2020年は、9月26日開催とありました。浅草カーニバルは、レントとは全く無関係のようです。何だか良く分かりません。

 ついでに、カーニバルそのものをネットで引いてみましたら、次のように記されていました。

  … 謝肉祭、ばか騒ぎ、大浮かれ、(お祭り・コンテストなどの)催し物、(スポーツの)祭典、巡業見世物、移動遊園地 …

 ものは次いで、レントも見ましたら、見つかりません。沢山の項目が出ていますが、教会暦のレントとは全く別物ばかりでした。


○ カーニバル、最初の謝肉祭だけが、本来の意味を少し残していますでしょうか。本来は次のような意味です。

 イエスさまの十字架を見上げ、その苦難を想って過ごすのがレントです。聖書で苦難を意味する数字は40です。ノアの洪水の日数であり、イエスさまが荒野で誘惑を受けられた日数、そしてイスラエルの民が荒野を放浪した年数が40です。

 そこでレントもイースターまでの40日間ですが、復活の日である日曜日はこれに加えません。2020年のイースターは4月12日、その前の40日と日曜日を加えると、レントの始まり、2月26日・灰の水曜日となります。

 この期間、一番簡単に言うと断食月です。イスラムではラマダン、イスラム暦の9月です。もっともイエスさまの十字架とは関係ありません。先ほど触れました浅草カーニバルは、レントではなく、ラマダンと関係するのでしょうか。まさかと思います。

 とにかく、一月もの間断食したら確実に死にますから、日中は断食、夜の間だけ食事を取ります。これが、イスラムのラマダンです。この期間には、却って食料の消費が普段よりも増えるそうです。全くの偽善です。

 同様に、キリスト教諸国では、断食ではなく、肉を食することが禁じられました。


○ 46日間、肉を食べません。これは肉食文化の欧米人にとっては辛いことでしょう。そこで、その前日に、肉をたらふく食べるようになりました。1日では不十分で、数日前からになりました。同様に、様々な娯楽も、レントの間は控えますから、その前の数日にまとめて楽しむようになりました。これが、カーニバルです。

 ですから、キリスト教徒でなければ、カーニバルは無縁の筈です。レントを守らなければ、カーニバルの理由がありません。

 浅草カーニバルなどは、そもそも存在し得ないのです。否、現代のカーニバルは、どこでもその存在自体が矛盾と言うべきでしょう。


○ さて、長々と、無駄話をしているのかも知れません。およそ、まともな教会ではカーニバルを催したりしません。

 にも拘わらずこのようなお話をしているのは、実は、聖書の時代、エレミヤの時代から、更に遡って出エジプト記の時代から、カーニバルが存在したからです。そのことが、聖書に記されているからです。

 出エジプト記から見ます。32章1〜6節、少し長い引用です。

 『1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、

   「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。

   エジプトの国から我々を導き上った人、

  あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、

  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、

   わたしのところに持って来なさい。」

  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。

   4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。

   すると彼らは、「イスラエルよ、

  これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。

  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。

  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。

   民は座って飲み食いし、立っては戯れた』


○ 金の飾り物で偶像を作り、『座って飲み食いし、立っては戯れた』

 私にはカーニバルと重なって見えます。

 エレミヤ書を見ます。3章23〜25節を引用します。これも、少し長くなります。

 『23:まことに、どの丘の祭りも/山々での騒ぎも偽りにすぎません。

   まことに、我々の主なる神に/イスラエルの救いがあるのです。

 24:我々の若いときから/恥ずべきバアルが食い尽くしてきました/

  先祖たちが労して得たものを/その羊、牛、息子、娘らを。

 25:我々は恥の中に横たわり/辱めに覆われています。我々は主なる神に罪を犯しました。

   我々も、先祖も/若いときから今日に至るまで/

  主なる神の御声に聞き従いませんでした。」』

 ここは懺悔の言葉ですが、同じことです。カーニバルと重なって見えます。


○ ところで、出エジプト記では、モーセを通じてイスラエルの民に十戒が授けられました。先ほど引用の箇所は、この十戒を待つ間の出来事なのです。十戒を授けられるその大事な時に、人々は偶像を崇み、神さまの約束を、神さまとの約束を忘れてしまったのです。そして、迷いや不安を鎮めるために、刹那的な快楽に走ったのです。

 神さまとの契約、そこには救いの約束が示されています。救いの約束のもとに、人間は神さまに従います。ところが、人は神さまに従わず、刹那的な快楽に走りました。救いが信じられなかったからです。不安・不信が、刹那的な快楽、カーニバルの所以なのです。


○ エレミヤ33章23節。

 『主の言葉がエレミヤに臨んだ。

 24:「この民は、『主は御自分が選んだ二つの氏族を見放された』と言って、

   わが民をもはや一国と呼ぶに値しないかのように、

  軽んじているのをあなたは知らないのか』

 『主は … 見放された』と考えることが、主を『軽んじている』ことに他なりません。主が、その救いの約束を破ると思うことが、主を『軽んじている』ことであり、それが不信仰なのです。不信仰故に、不安に苛まれます。そして、刹那的な快楽に走りました。これこそが、人間の罪の現実です。


○ 先週の箇所に遡ります。32章26節以下です。33〜35節を引用します。

 『彼らはわたしに背を向け、顔を向けようとしなかった。わたしは繰り返し教え諭したが、  聞こうとせず、戒めを受け入れようとはしなかった。

 34:彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し、

 35:ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクにささげた。』

 先週申しましたように、これぞ、バアルの祭典であり、ベルゼゼブのお祭りです。

 私には、どうしてもカーニバルと重なって見えてしまいます。あながち、見当違いではないと思います。


○ エレミヤ33章25節。

 『主はこう言われる。もし、わたしが昼と夜と結んだ契約が存在せず、

   また、わたしが天と地の定めを確立しなかったのなら』

 『昼と夜と結んだ契約』『天と地の定め』つまり、神さまがこの世界を造り、これを司られる理(ことわり)です。これは未来永劫普遍、絶対に変わることがありません。

 そのように、神さまが一端契約されたことは、変わることがないと、言われています。

 そのことだけを根拠として、26節の言葉が語られます。

 『わたしはヤコブとわが僕ダビデの子孫を退け、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を

  治める者を選ぶことをやめるであろう。

  しかしわたしは、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ。」』

 未来永劫普遍、絶対に変わることがない約束の故に、あくまでも約束を果たすということが言われています。約束を忘れ裏切ったイスラエルの民のために、あくまでも約束を果たすということが言われています。これはパウロの信仰義認論に繋がる考え方です。


○ エレミヤ33章14節。

 『見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、

  と主は言われる』

 恵みの約束、救いの約束は、15節に描かれています。

 『その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。

   彼は公平と正義をもってこの国を治める』

 イザヤの預言にも通じます。11章1〜2節。

 『エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち

  2:その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊』

 イザヤでも、ダビデの末裔がイスラエルの民を救うという期待が込められています。


○ エレミヤ、イザヤが言う彼とは誰のことなのか、勿論、メシア = キリストのことでしょう。しかし、具体的には誰を指すのか。エレミヤ書自体に、ヒントが挙げられているようにも見えますが、しかし、明確ではありません。具体的に、ダビデ王の末裔たるダビデ家の王を想定しているのかも知れません。もしそうだとすると、エレミヤの預言ないし期待は、外れてしまったことになるでしょう。イザヤも同様です。

 しかし、それは、イエス・キリストの誕生によって、成就しました。

 

○ エレミヤ33章16節。

 『その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。

   その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう』

 救いは、平安は、ただ、主の約束を信じることによってしか実現しません。

 エレミヤ33章5〜7節。

 『彼らはカルデア人と戦うが、都は死体に溢れるであろう。

   わたしが怒りと憤りをもって彼らを打ち殺し、そのあらゆる悪行のゆえに、

   この都から顔を背けたからだ。

  6:しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、

   彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。

  7:そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す』

 神の赦しを信じることにしか救いはありません。


○ クリスマス以降、エレミヤを読みながらも、常にクリスマスを意識していました。

 この箇所も同様です。

 ルカ福音書2章25〜32節、長い引用になります。

 『エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、

   イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。

 26:そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、

  とのお告げを聖霊から受けていた。

 27:シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、

   幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。

 28:シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

 29:「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。

 30:わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

 31:これは万民のために整えてくださった救いで、

  32:異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです』

 クリスマス礼拝の翌週、2019年最後の礼拝でこの箇所を読みました。

 繰り返しになりますから、結論だけを申します。

 『主が遣わすメシアに会う』これが救いです。そして『主が遣わすメシアに会う』ことが出来るならば、それは『この目であなたの救いを見た』ことであり、『この僕を安らかに去らせてくださいます』、つまり、死をも嬉々として受け入れることができるというのです。


○ 死をも嬉々として受け入れることができる人間には、何の怖れも不安もありません。死をも嬉々として受け入れることができるのは、救いを見たからです。救いをもたらす方を見たからです。その方の約束を信ずることが出来るからです。

 現代は不安不信の時代でしょう。今日、この直後にも何が起こるか計り知れません。

 時代劇を見ますと、旅立つ人と、水杯でお別れをします。その人が帰って来ないかも知れないからです。もう会えないかも知れないからです。しかし、大抵帰ってきます。銭形平次ですと、火打ち石を打ちます。これも同じ理由です。無事を祈る儀式・おまじないでしょう。平次は、60分以内に必ず帰ってきます。

 帰って来ないかも知れないのは、現代です。交通事故があります。他にもいろいろと不安定不確定なことがあります。防ぎようがありません。現代にこそ、信仰が必要なのです。