○ 今日の箇所を読むために、先ず、創世記2章7節を読みます。今日の箇所を読むには、是非一緒に読みたい所です。三年前に既に読みましたので、3分の1くらいに約めてお話しします。 ○ 創世記2章7節。 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、 その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』 創世記に依れば、人は土の塵で出来ています。人間の原材料は、土の塵です。人間とは、所詮、土から生まれて土に帰る、そういう儚い存在です。 しかし、聖書は、同時にもう一つのことを言っています。 土の塵で作られた存在に、『命の息』が、吹き入れられました。 その後に、『人はこうして生きる者となった』とあります。 『命の息』が、吹き入れられるまでは、姿形は整っていても、生きてはいなかったのです。木偶のようなものであり、或いは、死体のようなものだったのです。 ○ 言い方を変えれば、土の塵で作られ、骨と肉と皮で出来ているのは、人間の外見・見た目でしかありません。人が生命を持って本当の人間になるためには、鼻の穴から神さまの息を吹き入れられなければなりません。確かにそのように書いてあります。 神さまの息、別の言葉で言えば、聖霊、そして神さまの愛です。つまり、人間は、神さまの息、神さまの愛を呼吸して初めて本当に人間と呼ばれるのにふさわしい存在となるのです。 ○ 以上の事柄が、教会についても、全く当てはまります。聖霊なしには、教会は教会ではないし、教会の形をしていても、似て非なるものです。ホテルの結婚式専門礼拝堂などはその最たるものでしょう。教会の形をしていても、それは絶対に教会ではありません。 さて、人間の創造の記事との関連は、このことに止どまりません。創世記1章にも、2章とは違った観点から、人間の創造が記されています。 『神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、 家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27:神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。 男と女に創造された』 『すべてを支配させ』ること、互いに愛し合うこと、これが人間創造の目的です。神さまは、全ての生き物を『支配』させるために人間を作られました。『支配』よりも管理、保護の方が適切かも知れません。 神の息が吹き入れられたことで初めて人間は人間と呼ばれるのにふさわしい存在となりました。神の息・愛を呼吸し、神の御心である愛を実践する存在となりました。 ○ これは、教会と重なります。神は或る目的の下に、教会を創造され、教会に聖霊が注がれたのです。教会は、その使命を果たすためには、聖霊に満たされていなければなりません。 その目的とは、例えば、マタイ福音書28章19〜20節です。 『19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』 その目的とは、例えば、使徒言行録2章32〜33節です。 『32:神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33:それで、イエスは神の右に上げられ 、 約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。』 主イエス・キリストの十字架と復活の出来事の証人となって、この出来事、福音を全世界に述べ伝える、そのことのために、教会は創造されたのであり、そのことのために、教会に聖霊が注がれたのです。単に教義を伝えるのではありません。神の愛を伝えるのが使命です。 聖霊を受けるとは、何か超能力のようなものを得て、他の人問より、一段高い所に座るというようなことではありません。 ○ 言い換えれば、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事の証人となって、この出来事、福音を全世界に述べ伝えることをしていなければ、教会は教会ではありません。どんなに、貧しい隣人を助ける愛の業が行われていても、それだけでは、教会ではありません。孤独な現代人を慰め得るような、楽しい交わりを形成していても、それだけでは教会ではありません。また、どんなに学問的に高度な聖書の勉強をしていても、それだけでは教会ではありません。 ○ 今日の箇所の一つ前の段落にはなりますが、20節の披造物そして虚無という字について、簡単に説明致します。それが今日の箇所を読む鍵だと考えるからです。 披造物、日本語の感覚では、命あるもの全てといった意味合いで使われます。ギリシャ語でも英語でも、それに違いないのですが、聖書では、神によって造られたということが、より強調されます。 多くの箇所では、人類・人間と訳すことが出来ます。しかし、今日のこの箇所では、人類・人間と訳してしまっては、99%意味が失われます。神によって造られたということに強調を込めた翻訳でなくてはなりません。 エペソ書2章10節では、神の作品と訳されています。 『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、 しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、 キリスト・イエスにおいて造られたからです。』 神の作品という訳だと、この言葉の響きが一人歩きして、また新しい誤解を生むかも知れませんが、原文の意味合いは、正しく「神の作品」です。だから、勿論、披造物=造られたものでよろしいのですが。どうしても、拘らなくてはならない言葉です。 神が作られたものだから神が所有すべきものであり、その結果は、神さまによって守られる、こういうことです。 ○ もう一つ、虚無。この語を聖書の中に探しても、容易には見つかりません。虚無と訳されているのは、この一箇所だけです。他にはありません。ギリシャ語そのものもUペテロ2章18節に用例があって、新共同訳では『無意味な』、口語訳では『むなしい』と訳されているだけです。 似たような字は、テトス書1章10節で、『無駄話をする』と訳されています。ローマ書1章21節、『むなしくなり』、他にもありますが、まあ、そんな所でしょうか。 用例が少ないので、簡単に考えてしまいますが、この点にご注目いただきたいと思います。創世記1章2節です。 『地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、 神の霊が水のおもてをおおっていた。』 ここで、神の創造の業と、これの反対物としての虚無が、ワンセットで使われていることに注目しなくてはなりません。創造と虚無は、反対語なのです。 ○ つまり、虚無とは、人間が、神さまによって作られた被造物であることを否定するしそうです。言い換えれば、被造物の上に、神さまのみ心が働いていることを否定するしそうです。 もっと大袈裟に言えば、この世界、この宇宙に、神さまのみ心が働いていることを否定しています。この世界、この宇宙は、神さまの作品ではないと考えるのが、虚無思想です。 人間は、一人ひとりが、掛け替えのない固有の命を持ち、一人ひとりが、自分の人生の主人公であるというように考えるのが、今日の考え方です。 大変素晴らしいことを言っているように聞こえますし、まあ、一面の真理があるとは思います。 しかし、もし、それが、自分は神さまの被造物ではない、だから、神さまの作品でも、神さまの持ち物でもない、自分は神さまから全く自由だという意味だとするならば、それは、とても恐ろしい考え方です。 ○ 19〜20節も、この延長上で読まなくてはなりません。虚無、即ち、創造秩序の反対物の下に服従することが、神さまの御旨から出ているとは何とも、理解しがたい表現ではありますが、神さまの救済の計画に於いては、この矛盾が埋められ、解消するということです。ここも、十字架と復活の関係に重なります。死によって、生命を贖うという逆説によって、神さまの救済の計画は、全うされたのです。 ○ 創造の秩序とは、言い換えれば、神の意志であり、また、神の言葉です。このことは、創世記1章の、最初の数節を呼んでいただければ充分納得いただけるかと思います。『神は、光あれと言われた。すると、光があった。』神の言葉、即ち神の意志、即ち創造の秩序です。 31節以下をご覧下さい。新共同訳聖書では、「神の愛」と小見出しが付いています。神の意志は、愛です。だから、神の言葉も愛の言葉であり、創造の秩序も、その回復もまた、愛なのです。 ○ 今まで申し上げたことをお聞きになって、「個々人の、悩み・苦しみ・病、更には死といった事柄こそが問題なのであって、そこから遊離した創造の秩序などと言われてもピンと来ないし、関心がない。」とおっしゃる方もあるかも知れません。 もっと露骨に、他の人のことはどうでも良い、「私の、私が愛する人の、悩み・苦しみ・病、更には死といった事柄が問題なのだ」とおっしゃる方もあるかも知れません。「この問題に答えて下さる神さまでなければ用はない」それが本音かも知れません。 しかし、「個々人の、悩み・苦しみ・病、更には死といった事柄」に、一つ一つ対処して、解決を見るという考え方こそ、非現実的です。このような個々の問題を解決しても、披造物に窮極の救いはありません。個々の問題を解決しても、披造物はやがて朽ち滅びる、死を免れ得ないという根本問題は何も解決しません。それどころか、この根本問題は、「個々人の、悩み・苦しみ・病、更には死といった事柄」と、正しく結び付いているのです。 ○ さて4頁目にして、初めて今日の箇所に直接触れます。8章26節。 『同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。 わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、 “霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』 創世記2章の人間の創造と、同じことです。私たちの心に、聖霊が注がれています。私たちの空っぽだった心が聖霊によって満たされました。 使徒信条の『我は聖霊を信ず』とは、何か自然を超越した力の存在を信じるというだけでは全く足りません。『我は聖霊を信ず』とは、創世記2章で人間に命が与えられたように、私たち信仰するものに、聖霊が注がれたこと、私たちの空っぽだった心が聖霊によって満たされたことを信じることです。 ○ この聖霊は、同様にと言うよりも、先ず、教会に注がれました。それがペンテコステの出来事でした。仏教の寺院を伽藍堂と言いますが、伽藍堂は往々、空っぽという意味で使われます。しかし、私たちの教会の礼拝堂は伽藍堂ではありません。空っぽではありません。ここは聖霊が満ちている所です。聖霊が満ちていなければ、空っぽでなくとも隙間があれば、そこにいろいろなものが入り込むことでしょう。何より、人間的な思いが入り込みます。もしかしたら、虚無が入り込むかも知れません。 ○ 魔が差すという表現があります。人の心に悪魔がささやきかけるような瞬間を言います。魔が差すの魔は、悪魔の魔ですが、本来は間、間だそうです。つまり隙間です。人間の心の隙間、間に、悪魔が入り込むのです。どんな時、心に隙間が出来るのか、飲めや歌えやで浮かれている隙間が出来るかも知れません。それよりも大きな隙間は、怒る時に出来ます。制御出来ない心にこそ、隙間が出来、悪魔が入り込みます。 ○ 私たちは、教会のことで問題が生じたと思ったら、いろいろと具体的に手を打ちます。そうしなくてはならないでしょう。しかし、それよりも何よりも、祈らなくてはなりません。何を祈るのか、具体的な解決策を示して下さい、確かにそのように祈らなくてはなりません。しかし、もっと大事なことは、私たちの会堂の隙間を一人一人の心の隙間を、聖霊で満たして下さいと祈ることでしょう。 聖霊降臨を願い求めることは、所謂純福音派の専売特許ではありません。彼らが考えるような、特効薬ではありません。私たちの会堂の隙間を一人一人の心の隙間を、聖霊で満たして下さいと祈ることです。 ○ 虚無に捉えられることは、悪魔に捉えられることです。苦しくとも、その心の重さを、肉体の重さを、病の重さを、栄光に変えて下さる方に信頼しなくてはなりません。 教会を造り上げる業の中にいなくてはなりません。破壊する業に荷担してはなりません。教会を信じないことこそ、破壊の業です。救いを信じないことが、破壊の業です。 このことは、次週の説教のテーマです。 ○ 最後に28節。 『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、 万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています』 聖霊を信じるということは、具体的には、このようなことでしょう。聖霊を信じるならば、教会のために一緒に働くことが出来ます。 |