○ 2節の後半から読みます。 『見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない』 預言者イザヤがこのように描いている人を、キリスト教信仰を持つ私たちは、キリストだと考えています。ユダヤ教はそのようには認めませんし、キリスト教の学者の中にも諸説あります。しかし、伝統的な信仰では、ここに描かれる『苦難の僕』を、キリストと考えますし、そもそも、マルコ福音書は、その前提に立って、イエスさまの姿を、そして福音を記しています。 ○ キリスト、ユダヤ教ではメシヤとは、即ちイスラエルの真の王です。キリスト教では、イスラエルに留まらず、全世界の王、救世主です。 そのキリストが、『見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない』と形容されているのです。 旧約聖書は、最初の王サウルを、このように描写しています。サムエル記上9章2節。 『彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、 彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。 民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった』 偉丈夫にして美男子です。 ○ キリストのモデルとも言われるダビデは、このように記されています。 サムエル記上16章12節。 『エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、 姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」』 他の箇所では、ダビデの歌声が、詩人の才能が賞賛されています。 ソロモン王については、その知恵・知識が際立っていることが述べられています。 普通はそうでしょう。王は、姿形が美しく、武勇に富み、知恵に溢れています。現実はどうであれ、少なくとも、そのような姿で描かれています。 ミケランジェロのダビデ像のように描かれるのが普通です。中国でも日本でもそうです。 ○ しかし、イザヤには『見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない』 更に、3節。 『彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた』 何という王さまでしょうか。理解に苦しみます。キリストは暗愚の王なのでしょうか。歴史上、西欧でも中国でも日本でも、確かに無能な王、歴史から無視されるような王は存在しました。しかし、そんな王がキリストである筈がありません。では一体、何故。 ○ 4節が手掛かりを与えてくれます。 『彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛み』 ここで、ここ数週分の聖書箇所を思い出して頂きたいと思います。 特にイザヤ書46章、何度も繰り返し読んでいますが、もう一度1〜2節を読みます。 『ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ お前たちの担いでいたものは重荷となって 疲れた動物に負わされる。 2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず 彼ら自身も捕らわれて行く』 諄いので、説教の内容までは繰り返しません。結論だけを申します。偶像の神は、人間に担がれる神です。そして重荷となって、人間を苦しめる神です。滅びに導く神です。 しかし、真の王、本当の神さまは、『多くの痛みを負い』つまり、人間を背負い、人間の傷み・苦しみを担って下さる神さまです。『わたしたちの病』さえ背負って下さる神です。 ○ 46章4節も続けて引用します。 『同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す』 私たちを造った神は、この世界を造った神、そして、これを慈しみ、どこまでも担って下さる神です。 しかし、イスラエル人々が、偶像の神を慕って、これに仕えたように、人間の歴史は、姿形が美しく、武勇に富み、知恵に溢れている、王と言う名前の偶像を慕い、これに仕えて来ました。仕舞いには、ナポレオンやヒトラーやスターリンという大量虐殺者を、偶像として仰ぎ、若者がこれに命を捧げたのです。 ○ そもそも、イスラエルに最初の王が立てられた時の次第は次のようなものです。 イスラエルの民は、自分たちにも隣国のような王さまを与えて下さいと願います。それに対して預言者サムエルは、王が誕生することの弊害を上げて、王は神のみで良いと抵抗しますが、最後にはこれを聞き入れ、言います。サムエル記上8章17〜18節。 『こうして、あなたたちは王の奴隷となる。18.その日あなたたちは、自分が選んだ王の ゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない』 サムエルの時代から人々は、神ならぬ者を奉り、これを英雄として崇め、これに奴隷的に仕えて来ました。 ○ イザヤ書53章4節をもう一度読みます。 『彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と』 そうでしょう。当時のイスラエル人々にとって、王とは、そしてメシアとは、常人を超えた力を発揮して、イスラエルの人々を率いて戦い、そして勝利する者です。敗北などあり得ません。もし破れたならば、彼が戦に傷つき、彼が病に倒れたならば、それは、神さまに見放された証拠、むしろ、真の王ではなかったという証拠になるでしょう。 しかしイザヤは説きます。『彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった』と。 ○ 続けて5節を読みます。 『彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった』 キリストは人間の罪を代わりに背負い、代わりに刑罰を受け、そうすることで、神の赦しを願ったのだと、ここで、明確に述べられています。 旧約の宗教は、犠牲奉献の宗教です。その罪が大きければ、神への宥めの供え物は、大きなものになります。病気などから癒やされて感謝の捧げ物をする時も同様です。 罪が深いと自覚すれば、逆に感謝が深ければ、捧げ物をする人は、大きな犠牲を払います。しかし、それでも、人類が犯した罪は深く購いきれません。 ここで、究極の捧げ物が捧げられました。それがメシア・キリストです。 これは、新約の十字架理解と全く同じです。新約の十字架理解は、全く、イザヤの上に立っているのです。 ○ 今日、十字架の贖いを否定する向きがあります。少なくとも、軽視します。それは、イザヤとは相容れませんし、マルコ福音書等の十字架理解、つまり、贖罪論と相容れません。 何故、今日、贖罪論が軽視されるのでしょうか。否定されるのでしょうか。 一人ひとりの人間に、固有の価値、美しさが与えられていて、一人ひとりの人生が、掛け替えのない程に尊いものだと考えられるからです。それも良いかも知れません。否定するつもりは全くありません。 しかし、それでは、人間には罪はないのか、創世記に始まって、聖書の中で説かれている人間の罪の現実は、軽視されるのでしょうか。否定されるのでしょうか。 聖書研究祈祷会でローマ人への手紙を読み始めました。パウロの理解によれば、人間には罪の現実があり、それ故にこそ、滅びに定められています。その罪、滅びから救って下さる力が、イエスさまの十字架です。十字架の贖いです。 一人ひとりの人間に、固有の価値、美しさが与えられていて、一人ひとりの人生が、掛け替えのない程に尊いものならば、イエスさまの十字架、十字架の贖いは必要ありません。 そもそも、固有の価値、美しさが与えられている人間の世界は、それなのに何故、醜く争い、略奪や殺戮が絶えないのでしょうか。自然破壊が懸念されるのでしょうか。 ○ 十字架の贖いを否定する人も軽視する人も、十字架の意味を全く否定するのではありません。彼らにとっても、イエスさまの十字架は美しい出来事です。素晴らしい自己犠牲です。とても普通の人間には出来ないような、自己犠牲です。模範です。 しかし、そのような自己犠牲を示した人は、決して一人や二人ではありません。大勢います。 アッシジのフランシスと、イエスさまは同じような存在なのでしょうか。三浦綾子描く『塩狩峠』の主人公永野信夫は、もはやキリストなのでしょうか。 チェ・ゲバラをキリストのように思う人は、大勢います。未だに、ナポレオンやヒトラーやスターリンをキリストのように考える人がいます。それどころか、毛沢東も金日成も、ポルポトも。 ○ 5節を読みます。 『彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた』 前半は福音書の十字架の場面と全く重なります。このイザヤ書を元にマルコが記されたのだから当然だと言う人もあります。そうだとしても、マルコの十字架理解はイザヤの上に立っているのであり、マルコ一人ではなく、当時の教会の信仰がそうだったのです。 『わたしたちの背き』『わたしたちの咎』これがために、主は十字架に架けられました。 人は誰でも生まれながらに、罪なく美しく、掛け替えのない価値を持っているとしたら、イザヤもイエスさまも無用でしょう。 また、大事なことは後半です。 十字架は、平和を、癒やしをもたらしました。このために十字架の犠牲が払われたと言っても過言ではありません。 偽キリストが歩いた道には、累々たる屍が横たわります。平和はありません。 ○「一将功成って万骨枯る」という言葉があります。英雄一人の後ろには、屍が続きます。 パウロはこのような光景を、「キリストの香」という逆説で描いています。 二コリント2章14節。 『神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、 わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます』 詳しくお話ししていると別の説教が出来上がりますので端折って申します。 戦争で大手柄を上げたローマの将軍は、彼一人のために新しく立てられた凱旋門を潜って都に入場してきます。沿道の人々に、お金が撒かれ、香水が薫る花びらが撒かれます。しかし、凱旋門に至る道路の両側には、十字架ならぬ一本柱に曝された敵兵の死体が並びます。その死体は、香水薫る花びらなどでは誤魔化しきれない腐敗臭を放ちます。傷つき死にかかった多くの捕虜が引き立てられて来ます。 この光景と重ねて、パウロは、私たちは十字架に架けられている方の匂いを身に纏っている、しかし、それは死の臭いではなく、救いに至るキリストの香なのだと言っているのです。華やかで美しく見えるローマの凱旋軍は、実はおぞましい死臭を放っており、キリストの十字架の死に立てられているキリスト者は、平和の香、キリストの香に包まれていると、パウロは言います。 ○ 6節でも、人間の罪の現実が告白されます。 そして、十字架の上のキリストの姿が7節に預言されます。 『苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった』 これもイザヤの預言です。他の預言と切り離すことは出来ません。イエスさまの十字架上の沈黙は、イザヤの預言なのです。イザヤの預言の延長上にあるものですから、挫折、絶望だったり敗北だったりする筈がありません。 ○ 8節も同じ内容を繰り返し強調しています。 『捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを』 前半は、全く福音書の十字架の場面と重なります。そして、ここでも、『民の背き』、人々の罪がキリストを十字架へと追いやったと記されています。ここでも十字架は民の罪の贖罪であることが強調されています。 ○ 9〜10節はかなり分かり難い表現ですが、ここでも十字架と贖罪に繋がることが記されています。11節も併せて読みますと、十字架は贖罪、罪の赦しの計画の中で起こったこと、起こらなければならないことであって、偶発的に起きたことではないと強調されています。 だからこそ、12節では、この十字架によって人々に救いがもたらされると言っています。 『彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった』 イザヤが警告した地上の王、偽キリストとは全く逆の存在です。 人間に命の犠牲を強いる宗教は、偽キリストを拝む宗教であって、偶像を拝む信仰です。若者を戦場に駆り立てる宗教は、邪教に他なりません。 |