日本基督教団 玉川平安教会

■2020年3月1日

■説教題 「叫ばず、呼ばわらず
■聖書  イザヤ書 42章1〜9節


○ 『見よ、わたしの僕、わたしが支える者を』

 『わたしの僕』、この僕とは何者であるかが、学問上も解釈上も、最大の問題となります。勿論、1〜4節に記されたこと、そして、所謂『苦難の下僕』の該当箇所が、この内容的な説明です。

 大雑把に、個人、集団、メシア、と取る三つの説、また、これらを複合させた説があります。

 ここでは、結論を言わずに、続けて読んでまいります。


○ 同じ1節。『わたしが選び』

 特定の任務または職務へと選ばれたということであり、通常は、カリスマ的な士師、王、預言者が、これに該当します。

 ここでは、1節(国々の裁き)、3節(裁き)、4節(この地の裁き)と、裁き=判決が三度繰り返されています。裁きという任務・職務に選ばれた者であることが明確に述べられています。

 もし、『わたしの僕』をメシア・キリストを預言するものだと理解するならば、このキリストが、裁きという任務・職務に選ばれた者であるということを、忘れてはなりません。

 キリストの時は、大前提としては、裁きの時なのです。

 そのことを、私たちは、殆ど意識していないのではないでしょうか。

 クリスマスを、その意味も知らずにお祭り騒ぎする人々の念頭に、神の裁きなどは、全くありません。


○『わたしが支える』とは、選んだ方(神)の力が、任務の遂行のために注がれることを意味します。

 『(わたしが)喜び迎える者』、『(わたしの)心に適う者』、ここでも、彼の任務遂行が、全く神の御旨に合致していることが強調されています。

 『彼の上にわたしの霊は置かれ』、霊が置かれるのは普通は預言者の上にです。また、サウル王やダビデ王についても同様の記述があります。霊が離れる、または弱まるという表現で、サウルが王位から退けられることが表現されています。

 このことからも、霊は、直接に職務と結び付いており、職務を達成する力、神の支え、神の選びこそが霊であると言えます。

 故に、霊が置かれるとは、何かが憑依するとか、恍惚状態に陥るということと、直接の関係はありません。


○ 2節に入ります。

 『彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない』

 『叫ばず』、直接には、霊を持つけれども叫ばずということです。当時の一般の人々の聖霊理解を否定しています。

 聖霊を持つということを、何かが憑依するとか、恍惚状態に陥るというように理解して、まるでその証拠であるかのように、叫んだりうなったりすると、そのように考えている人が圧倒的に多いようです。

 教会の中でも同様です。

 しかし、少なくとも、この箇所に於いて、『彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない』、神による裁きという使命を与えられた者が、聖霊を与えられた者が、『彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない』のです。

 『呼ばわらず、声を巷に響かせない』とは、『叫ばず』と同様の意味です。

 当時王は新しい政令を発すると、使者によって大声で巷の者に告知したそうです。内容よりも、御触れが出た、御触れを出す権威を持った者がいるということが大事なのかも知れません。それが、全く否定されているのです。

 神から使命を与えられた者、選ばれた者、権威を持つ者が、しかし、『彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない』のです。


○ 3節。

 『傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/

   裁きを導き出して、確かなものとする』

 『傷ついた葦を折ることなく』

 パピルスと訳される語は複数あり、葦ともよしとも、特定できないそうです。また、傷ついた葦が何を比喩するかも明確ではありません。

 弱っている者、死が迫っている者の意味でしょうか。そうだと前提すれば、彼の裁きは、善悪を裁くのであり、彼が正しい者であれば、弱っている者、死に定められた者をも救うという意味となります。


○ 『暗くなってゆく灯芯』も、『傷ついた葦』と同じことを意味しています。

 例え正義のためであっても、王や軍隊の力で、それを行使する時には、犠牲が付きまといます。

 3節は、僕はそのような犠牲を強いないという意味に取ることは、十分可能だと考えます。

 9.11の後の、アメリカによるテロ対策には、義があると、私も思いました。武力行使もやむを得ない局面があると思いました。多くの人がそのように考えたと思います。確か当初の支持率は90%近くあったと思います。

 税金がこれに使われることが分かっており、報復テロが起こる可能性が否定できないのに、これだけの支持を得たのです。

 しかし、何年か経って、振り返ってみると、結局は、徴兵制ではないにしても、貧しい青年たちが、戦場に送られ、命を落としたのです。兵士として働くことで奨学金を得たり、アメリカ国籍を得たり、安定した職業を得られると考えた、貧しい青年たちが、命を賭けて、戦ったのです。

 正義を行使するためには、大きな犠牲を覚悟しなければならないようです。5000人が故なく殺害されるという悪行、これを放置は出来ません。悪者は裁かれ、罰せられなければなりません。そのためには、10000人の若者が命を落とそうとも、仕方がありません。

 この悪者を送り出した国で、直接この罪とは関係ない幼い子どもたちが何万人上や病に苦しもうが、それは仕方がありません。正義が行われるためなのですから。

 テロリストも、同じように考え、行動したのでしょう。


○ イザヤ書が言うのは、これとは全く逆です。

 『傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/

   裁きを導き出して、確かなものとする』

 武力の行使ではありません。しかし、『裁きを導き出して、確かなものとする』のです。

 私たちは、この言葉を、真っ正面から、受け止めなくてはなりません。

 裁きは確かに行われるのです。それを否定するのは、非聖書的です。しかし、この裁きは、武力の行使によっては、実現しないのです。


○『裁きを導き出して、確かなものとする』の部分は、口語訳聖書ですと、

 『真実をもって道を示す』となっています。

 日本語の感触では、大分違うように聞こえるのですが、道そもそも、裁きのことです。

 『道を示す』とは、裁きであり、正しい審判であり、それが、道なのです。


○ 4節。

 『暗くなることも、傷つき果てることもない/

   この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む』

 『暗くなることも、傷つき果てることもない(衰えず、落胆しない)』のは、僕です。忍耐強く、使命を全うするのです。


○ 『島々は彼の教えを待ち望む』、『島々は』、口語訳では『海沿いの国々は』となっています。

 当時のユダヤ人の感覚では、海は地の果て、島は、またその果て、つまり、海を越えて、世界中の者に福音が宣べ伝えられるという意味です。

 『傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく』このことが実現します。これこそが、私たちが持つべき信仰です。

 別の言い方をしますと、『傷ついた葦が…折られたり、暗くなってゆく灯心が…消され』たりする仕方で、この福音が宣べ伝えられることはありません。

 「右手にコーラン左手に剣」という言葉があります。イスラムの布教が如何に容赦のないものであったかを表現しています。これについては、キリスト教がでっち上げたものであって、本来イスラムの教えではないという弁明もある一方、正しくは「改宗かさもなくば金を」だとか、現代のイスラムこそ、「右手にコーラン左手に機関銃」だとかいろんなことを言う人があります。

 イスラムのことは分かりませんが、何れにしろ、イザヤが言うのは、『傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく』です。これに矛盾する伝道論はありません。

 

○ 5節。

 『主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/

   地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/

   そこを歩く者に霊を与えられる。』

 天地を創造された神は、生き物をお造りになられた神は、『その上に住む人々に息を与え』られました。息即ち、命を与えられたのです。

 更に、『そこを歩く者に霊を与えられる』とあります。

 息と霊と、似たような意味合いを持つ言葉が重ねられています。どちらも、命と訳される場合があります。全く同じ意味のことを、別々の言葉で表現し、強調するという文学的な手法は、旧約聖書の中にしばしば現れます。

 ここは、どうでしょうか。

 使い分けられているのではないでしょうか。

 生きている者全ては、神によって息=命を与えられた、その中のある者は、更に霊を与えられたと読むと、少し、解釈が過ぎるかも知れませんが、そのような理解が根底には存在するように思います。


○ 6節。

 『主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。

   民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた』

 5節の、霊と6節の『恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った』、そして、『あなたを形づくり、あなたを立てた』とは、内容的に重なることだと思います。

 もう2年前になりますが、コリント書の連続講解説教をしていた時に、繰り返しお話ししました。

 無教会の高橋三郎先生は、こんな説を立てています。

 つまり、新約聖書特にパウロ書簡では、恵みという言葉が出て来たら、大抵の場合、使命と置き換えて読んだ方が分かり安いと言うのです。

 確かに、その通りでして、パウロ書簡、新約聖書に限らず、旧約聖書でも、これが当て嵌まることが多いのです。

 要するに、使命と恵みとは結び付いているということです。そして更に、ここに霊が重なるのです。神によって使命を与えられた者に、恵みが与えられるのです。また、その使命を全うすべく、霊が下されるのです。


○ 説教で何度も繰り返し申しますように、霊は、神さまのご用に当たる者に、ご用に当たる時に、与えられるものであって、ご用とは関係なく与えられる超能力ではありません。

 逆に言いますと、私たちは、神さまのご用に任じられた時には、臆することなく、これを受けなくてはなりません。謙遜も要りません。

 何故なら、必要な力は、神さまが下さるからです。

 ローマの信徒への手紙8章26〜28節。少し長い引用になります。

 『同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。

  わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、

 “霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

 27:人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。

   “霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

28:神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、

   万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』

 このことを信じないで、神さまのご用に当たることはできません。むしろ、このことを信じるならば、必要な力は、神さまが与えて下さるのです。


○『民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた』

 『あなた』とは、誰なのか、『僕』のことか、イスラエルのことか、それとも、『僕』に率いられる信仰者の群れのことなのか、この箇所からだけでは、断定はできません。しかし、何れにしましても、神さまのご用に当たる者のことです。

 そういう意味では、大胆に、私たちキリスト者に当て嵌めて読むこともできるかと思います。


○ 7節。

 『見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/

   闇に住む人をその牢獄から救い出すために』

 この解釈も、『あなた』とは、誰なのか、と重ねて、何通りにも読むことができます。

 捕囚からの解放が一番基本にあります。

 私たちに当て嵌めて読むならば、これを伝道と理解することができます。

 『見ることのできない目を開き』

 多くの人には、聖書の言葉は聞こえていません。その前に立ち止まることをしません。


○ イザヤ時代だけではありません。今日でも、多くの人が、枷に捉えられ、牢獄に閉じ込められ、闇の中に住んでいます。

 これは、何も、北朝鮮の人民のことを言っているのではありません。この日本のことです。

 枷とは、何も、足を縛る者だけではありません。心を縛り付けるものが、無数に存在するのです。牢獄とは、監獄のことだけではありません。私たちを閉じ込めてしまうものが、無数に存在します。

 がんじがらめにされて生きているのが、私たちの現実です。

 しかし、そのような私たちのところに、この方はやって来られ、

 『叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。

 3:傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して』

 私たちを救い出して下さいます。