○ 27〜30節は時間的には、前半と後半の順番が逆です。 29節。 『その日には、人々はもはや言わない。 「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」と』 エレミヤの言う通り、『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』などということはありません。しかし、人間の歴史を通じて随分と長い間、現代に至るまで、『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』という考え方・思想が、蔓延っています。因果応報論です。 ○ 時間の制約がありますので、因果応報論とは何かという話は致しません。どなたもご存じのことですし、省略します。ただ、聖書は概ね因果応報論を否定している、とだけ申し上げておきます。何故否定されるのか、それは因果応報論は、事柄を上手に、時には無理矢理にこじつけてでも説明します。そして片付けてしまいますが、何も問題を解決しません。むしろ、苦しむ者の傷に塩を塗り込む業だからです。 ○ 因果応報を否定するエレミヤは、では、代わりにどんな説明・理屈を用意しているのでしょうか。30節。 『人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く』 ご先祖さまのせいなんぞではない。他の誰のせいでもない。自分自身のせいだと言います。いわば自己責任です。人の不幸も滅びも、自己責任だと言うのでしょうか。 ○ 因果応報論が現代人の多くから反感を買うとすれば、自己責任論は、もっと多くの人々から反感を買うでしょう。 何故なら、私たちは、現実のこととして、幾つもの事例を知っています。当人に何ら落ち度がないのに、不幸にして事故に遭い、犯罪に遭遇し、そして、決して不摂生や自堕落な生活をしたわけでもないのに、重大な病を得ることを、知っています。 『人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く』 否、決して『酸いぶどうを食べ』た覚えはないのに、私たちの歯はうくことがあるのです。 これ以上、実例を挙げる必要もありません。誰もが知っています。人は、謂われない迫害を受け、災難に遭い、死ぬほどの苦難を受けることを、それどころか、命を取られてしまうことを。 ○ 28節を読みます。 『かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、 災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、 また植えようと見張っている、と主は言われる』 恐ろしいことが記されています。 私たちが信じ頼む神さまは、このような方なのでしょうか。 『抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていた』のでしょうか。 紛れもなく、そのように記されています。どんなに抗弁しても、この事実は変わりません。 神は『抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたら』す方なのです。 ○ 誰を。誰を『抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたら』すのでしょうか。人類一般などと考えるから、話が歪んで来ます。対象は、当時のユダヤの民衆です。もう少し具体的に言えば、神を信じることを止め、偶像にすがり、権力にすがって、時代の危機を生き延びようとした人々です。 神の裁きを語るエレミヤの預言を否定し、平和は続くという偽りを預言をする偽預言者に聴き従った民衆に対して、この厳しい裁きの言葉は語られています。 この辺りのことは、後日詳しく読むことになります。予告編的に少しだけ触れます。 ヨシア王のメギトの戦いにおける戦死のあと、ユダヤの国情は、暗雲に包まれてまいります。誰の目にも、戦乱が近づきつつあることが見えてきます。かつてないほどの国難が迫っています。しかし人々は、だからこそ、この現実から目を背けようとします。今、自分の手で握ることの出来るものに必死にしがみつき、守ろうとします。 ○ 人々は、平和を語る偽りの預言に耳を傾けます。 エレミヤ書23章16〜17節。 『万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの 言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ 主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。 17:わたしを侮る者たちに・かって/彼らは常に言う。「平和があなたたちに臨むと 主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって 「災いがあなたたちに来ることはない」と言う』 人々は、偽りであれ、平和を約束する預言を聞きたいのです。滅びを語る真実は聞きたくありません。 結果、偽りの平和を語る悪魔と契約してしまったのです。 エレミヤは基本愛国者です。ですから、滅びなど語りたくもありません。 しかし、神はエレミヤの口に真実の言葉を授けるのです。これは、エレミヤ書1章から、一貫しています。この辺りのことは、後日23章を改めて読みたいと思います。 ○ さて、『抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたら』す対象は私たちではない、ユダヤの民に向けられた者だとすれば、私たちは一安心、でしょうか。 27節を読みます。 『見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、 人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる』 『抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたら』すのは、次の種を植えるためです。 私は家庭菜園が趣味です。他の趣味は出来なくなってしまいましたから、この頃では殆ど唯一の趣味かも知れません。猫の額どころか、ネズミの額程度の土地に、所狭しと植え付けます。 新しい種を植え付けるのには、いろいろと準備手入れが要ります。一番肝心な準備は、耕し、石ころなどの邪魔者を取り除き、肥料、元肥をやることです。 作物によっては、そのまま土に混ぜ込めば済みますが、アスパラなど、ものによっては、前の年のものを完全に取り除くか、焼くかしないと、障がいが起こります。 『抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたら』すことか必要なのです。 限られた庭で育てておりますと、どうしても重ねるようにして植えてしまいます。これでは、新しいものも、古いものも、共倒れになります。まして、古い苗の真上に新しいものを植えることは出来ません。この辺りのことは、チェコの文豪カレル・チャペックが、『園芸家の12月』という本に書いてある通りです。 連作できないものもあります。 これを怠ったら、正に自己責任で、収穫は期待できません。 ○ 昔々、有名な説教家の講演を聴いたことがありました。 その題からして振るっています。 なんと「卵を産まない鶏は絞め殺される」でした。 当時神学生だった私は、この題名そのものに強い反発を覚えました。「卵を産まない鶏は絞め殺される」、洗礼者をどんどん生み出さないような教会は、その存在理由がない。 当時は、成長する教会と衰退する教会とにはっきり分かれていく時代でした。要は、人口が増える都会近郊と、過疎化が進み始めた地方との違いです。 ある教会に赴任して、10年の間に礼拝出席が倍以上に増えたという教会・牧師の例が、紹介され、もてはやされていました。勿論、それだけの熱心、工夫、信仰があったからでしょう。結構なことです。この時期、奥羽や東北の諸教会は、停滞どころか、漸減傾向にありました。 しかし、10年の間に礼拝出席が倍以上に増えたという教会が立てられた東京近郊の都市は、その前後20年の間に人口が5倍に増えています。市のホームページに掲載されています。単純な比率から言ったならば、地方の振るわない教会よりも、実は、もっと成績が悪いのです。 このことと日本伝道論と重ねて、思うことがありますが、脱線になりますので、またの機会に致します。 ○ 私は地方教会で働く、それこそ卵を生み出せないでいる老牧師たちを知っており、彼らを心から尊敬していましたから、「卵を産まない鶏は絞め殺される」という言葉・表現も、その根底にある教会拡張主義みたいなものも、酷く嫌いでした。 丁度それに重なるようにして、東神大の旧約で、エレミヤを読み、これにも反感を覚えました。その後、しばらく、エレミヤの預言は読みたくもありませんでした。 しかし、今振り返ると、損してしまいました。船水衛司先生の講義を、全く理解出来なかったのはもったいない限りでした。 ○「卵を産まない鶏は絞め殺される」を、教勢拡大としか聞かなかったことがそもそも間違いでした。卵から鶏が生まれます。鶏から卵が産み出されます。鶏を譬えにとると無理がありますので、種の譬えに戻します。 もう一度27節。 『わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、 と主は言われる』 強調点は、あくまでも撒くことです。そして撒くためには、刈らなければならないものがあります。滅ぼす業ではありません。生み出す業、育てる業なのです。 ○ 31節。 『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、 と主は言われる』 神さまが、期待した収穫を得られなかった畑に新しい種が撒かれようとしています。期待された収穫とは何か、新約聖書ですと、収穫・実は、信仰の生り物、つまり愛と置き換えることが出来ます。常にそうです。 エレミヤの預言でも同じことでしょう。神さまは、イスラエルという畑に、信仰の実、愛を期待しました。しかし、人々は争い、戦い、憎しみを生み出しました。 畑が新しくならなければ、新しい種を撒くことは出来ません。それが、新しい契約です。 この際、古い契約とは、モーセの契約であり、十戒のことです。神さまと契約を結び、神の民となったのに、イスラエルは、この契約に背き、信仰の実ではなく、憎しみを育ててしまったのです。32節にある通りです。 『この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取って エジプトの地から導き出したときに結んだものではない。 わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、 彼らはこの契約を破った、と主は言われる』 『エジプトの地から導き出した』神との契約を破り、偽りの平和を語る悪魔と契約してしまったのです。 ○ 33節。 『しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、 と主は言われる。 すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』 『わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』繰り返されたこと、しかし、今新たに、この契約が読み上げられ、更新されるのです。 私たちの教会も、他の何かではない、愛を生み出す教会にならなくてはなりません。 愛を沢山実らせるという、神さまとの契約を、果たさなくてはなりません。そうでなければ、『抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたら』されても、仕方がありません。 ○ クリスマス以降、イザヤ、エレミヤの預言で、クリスマスと重なる箇所を読んでまいりました。今日の箇所も、これに該当します。 『わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』 マタイのインマヌエルの預言に重なります。 1章23節。 『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』 私たちは、この預言を、心から受け入れて来ました。この頃は、寄り添って下さる神とか、同行者なる神とかと言われます。苦しい時、絶望的になった時にも、共にいて下さる神、私たちが十字架に架けられるような思いをする時に、隣の十字架にいて下さる神、 … それならば、神が隣にいて下さることを願うならば、『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』この契約を忘れてはなりません。 洗礼を受けた時に、心の内に刻まれた印を、消してはなりません。 |