日本基督教団 玉川平安教会

■2020年7月5日

■説教題 「現代に生きる十戒
■聖書  出エジプト記 20章1〜17節 


○ マタイによる福音書の『主の山上の説教』から初めて、所謂三要文を読んでいます。と言いましても、三要文そのものをテキストとして礼拝説教をする訳ではありません。これに該当する聖書箇所を選んで読んでおります。

 『主の祈り』は、これが含まれる『主の山上の説教』の大部分の箇所を読みました。十戒については、先週申命記の30章を読みました。同じ申命記の6章は以前に読んでいます。今日は、十戒そのものが記されている、出エジプト記の20章を読みます。


○ 第1戒『あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない』

 この戒律を、不寛容だとして嫌う人があります。仏教のような多神教の信仰を持つ人、この影響下にある人が言うのなら分かります。そういう考えや信仰があることは否定出来ません。しかし、キリスト教の信仰を持つ人や、その影響下にある文明で育った人が、聖書、教会が不寛容だと批判するのには、ちょっと理解に余ります。まして、日本基督教団の信仰者や牧師が、このようなことを言うのは、大きな問題ではないでしょうか。

 一神教、神は一人のみは、キリスト教の大原則です。これを外しては、創造の神はありません。ユダヤ教もキリスト教も成り立ち得ません。


○ 神が大勢いるということは、つまりは、沢山の真理があり、真実も多様だということです。大勢の神々の中には、平和の神もいれば、戦争の神もいます。寛容な神もいれば、不寛容な神もいるということでしょう。寛容であることが、絶対的な真理であるかのように言う人は、不寛容も、その価値観の一つとして受け入れなければなりません。これは矛盾です。

 

○ イエスさまは、マルコ福音書12章で、十戒を2点に要約しました。

 【「第一の掟は、これである。

  『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。

   30:心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、

   あなたの神である主を愛しなさい。』

   31:第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』

   この二つにまさる掟はほかにない。」』

 何しろ『神である主は、唯一の主である』と仰いましたから、第1戒を否定する人は、つまり、他の宗教、神々に対する寛容を強調する人は、イエスさまを受け入れない人でしかありません。

 また、『隣人を自分のように愛しなさい』とも仰いました。このことは、主の山上の説教を通じて、既に読みました。隣人とは誰か、私たちは隣人を自分の好みで選び、ある人については、隣人として受け入れ、他の人については、隣人ではないとして退けます。

 しかしイエスさまは、隣人を選ぶことは出来ないと教えておられます。今この時、隣にいる人が隣人です。ですから、『あなたの敵を愛しなさい』という究極の教えに繋がってまいります。


○ 誰が、敵を愛することが出来ますか。出来っこありません。しかし、これがイエスさまの教えだから、この黄金律が、キリスト者の信仰となります。唯一の神である方が仰るから、私たちは、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に生きることが可能になるのです。

 ある神さまは、隣人を愛しなさいと言い、別の神さまは、見方を愛し敵を憎みなさいと説くならば、自分の考えに合致した神さまを選ぶ人間が、最終決定権を持っています。

 つまり、自分が神さま、それ以外ではありません。


○ 第3戒『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない』。昔、ユダヤ人はこの戒律を厳密に守りました。ために、律法を朗読する時でも、神の名前が出て来ると、その部分は発音しなかった、サイレントだったと言われます。それではあまりに不自由だから、別の発音が当てられました。神の固有名詞ではなく、一般名詞の神が用いられ、ために結果、神の名前が別の名前になってしまいました。それが、文語訳聖書のエホバです。

 そこで、翻訳が新しくなった時に、今更元々の発音を当てるのもどうかと言うことで、全て、主に置き換えられました。『主の名をみだりに唱えてはならない』に適います。

 日本基督教団は神の名前を棄てたと批判する教団・教会があります。このような批判は見当違いだと思いますが、そもそも、そんなにエホバに拘るのなら、むしろ、『主の名をみだりに唱えてはならない』に拘るべきではないでしょうか。


○ マタイによる福音書7章21〜23節。

 【「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。

   わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』

 行いを伴わない信仰はないと解釈することも出来ましょうが、むしろ『主の名をみだりに唱えてはならない』だと思います。主の山上の説教では、5章34節。

 『しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならな  い。そこは神の玉座である】

 6章7節。

 『あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。

   異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる』

 このように、口先の信仰、中味のない信仰が批判されています。『主よ、主よ』と言いながら、この人は神さまを愛してはいません。「アイラブユー」を連発する人に、真心・実がないのと同じです。


○ 第4戒。

 『安息日を心に留め、これを聖別せよ』

 これは現代人にとって、厳守することがもっとも困難な戒律です。第1戒から第3戒も、決して容易ではありませんが、守ることは不可能ではありません。会社や学校で神社に参拝したり、祈祷を受けることを強いられたりといった困難があるように聞いています。他宗教での葬儀や結婚式でも、戸惑いはあります。しかし、断固として拒否することは出来ます。不可能ではありません。まさか殺されはしません。信仰者としては毅然とした姿勢を持つべきでしょう。

 例えば、他の人が焼香する時に、焼香はせず、手を合わせて祈ることは出来ます。


○ しかし安息日を守る困難は、この比ではありません。そも安息日とはユダヤ教では土曜日になります。もっとも暦が全然違いますから、今日の暦で安息日は何曜日に当たると言うことが意味がないかも知れません。土曜日を安息日とすることが信仰の核心部分だと考える教派がありますが、私にはあまりピントきません。

 安息日を守る困難とは、そんなことではありません。具体例で申します。

 私が知っていた長老さんは、いろんな意味で熱心な、立派な、模範的な信仰者でした。ですから、いささかも批判めいたことは言いたくないのですが。この人は印刷会社の経営者です。印刷会社は、常に締め切りに追われる仕事です。仕事の多くが待ったなしです。当然、日曜日にも会社は機能しなくてはなりません。印刷機は動いています。人が働いています。

 この人は、市議会の議長を務めたこともありました。地方政治家です。それでも日曜日は絶対に教会に出掛けます。60年、病気で入院した時以外は礼拝を休んだことがありません。

 しかし、日曜日にも会社は機能し、印刷機は動いています。人が働いています。

 第4戒を読み直して下さい。このように記されています。

 『あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、

   あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である』

 安息日の規定は、休みなさいではなく、むしろ休ませなさいではないでしょうか。家人や労働者を、疲れ果て病気に倒れるまで働かせてはならないが、安息日の意味ではないでしょうか。

 隣人を愛しなさいという戒めと、安息日を守こととは本来一つのことなのです。


○ 昔の宣教師など安息日を絶対視する人は、日曜日には料理をしません。土曜日の内に調理したものだけをいただきます。これが欧米の冷たい料理の起源だとも聞きました。今は冷蔵庫もあります。こんな規定を守ることは何の困難もありません。しかし、日曜日にも働いている人がいます。これらの人たちの働きがなければ、電車にも乗れません。そも電気がありません。多分、礼拝を守ること自体が、大変に困難になります。

 電車で働く人、電力会社のことも、隣人です。これらの人のことを忘れて、自分は安息日を守っていると言うのは、欺瞞に過ぎません。


○ 第5戒以降は、どれも当然と言えば当然のことです。ユダヤ教キリスト教ならずとも、倫理道徳、むしろ常識として、このように言われていると思います。

 しかし、では厳守されているかと言えば、そうでもありません。

 特に『あなたの父母を敬え』、大変に困難です。多くの人が自分のことで自分の家族のことで精一杯です。そこに父母のことが加わりますと大変な負担になります。実際に、その負担に押し潰されてしまったというニュースが流れてきます。

 経済的にも時間的にも相当の余裕がありませんと、『あなたの父母を敬え』は困難です。

 また、いろんなことがどんどん激しく変化する時代です。昔「老いては子に従え」という言葉がありましたが、現代こそこれを実感させられます。私などもそうですが、パソコンのこと、携帯電話のこと、まるっきり子ども頼みです。その子どもも、新しいシステムにはついていけないと言っていますから、間もなく「老いては孫に従え」になってしまうでしょう。つまり、「あなたの子・孫を敬え」これが現実です。

 両親は、また子ども家族は一番近い隣人です。


○『殺してはならない』これがとてつもない難題だった時代がありました。否、おそらくは、何時の時代もそうでした。むしろ、現代、それも日本など例外的に平和に恵まれた国だけにしか通用しない戒めでしょう。

 自分が生き延びるためには殺さなければならない、これが、人類の歴史上の常識だったと言わなくてはなりません。

 今日の主題からは脱線かも知れませんが、人間が犯す罪の最大のものは、人を殺すことではありません。人を殺させることです。人を殺す人は、平時は犯罪者です。しかし、戦時には当たり前のことです。人を殺させる人は、平時はヤクザくらいで、犯罪者ですが、戦時には英雄です。お国のためにと言っても子どもを戦場に送ってはなりません。

                                   

○ 他の戒めも、全部まとめてしまいますが、厳密に守ろうとすれば、決して簡単なことではありません。しかし、キリスト者ならば、これを守るでしょうし、他宗教の信者だって、良心的な人ならば、これを常識とするでしょう。守らない人、守れない人が多いでしょうが、しかし、万人に通用すべき戒めではあります。


○ さて、敢えて第2戒を飛ばしました。ここで読みます。20章4〜5節です。

 『あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、

   また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

  5:あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない』

 イスラム国とも関係が深いと言われるアフガニスタンのタリバンは、その過激な暴力性や女性蔑視などで、欧米的価値観を持つ人々から批判され、忌み嫌われる存在です。そのタリバンが、歴史的には大変貴重な遺跡を次々と破壊しました。バーミヤンの仏教遺跡群などです。

 何故破壊したのか、イスラム教では偶像を崇拝することが禁止されているからです。全てコーランに記されているままに行動するイスラム原理主義のタリバンが偶像を破壊するのは、彼らの信仰に照らして、むしろ当然の行為です。そして、イスラム教の偶像崇拝禁止の起源は、この出エジプト記20章4〜5節です。


○ 偶像崇拝とは何か、その本質問題性はどこにあるのかということは、つい最近にイザヤ書、エレミヤ書を通してお話ししました。偶像崇拝、神ならぬものを拝みこれに希望を託することです。実際には価値のないものにすがることです。

 イザヤ、エレミヤの時代には、周辺諸国の金銀、富そのものが偶像でした。金銀があれば、富があれば、平和が買える、救いが買えると思ったことが偶像崇拝でした。イエスさまの時代には、ローマ皇帝の肖像が貨幣に刻まれていました。つまり、ローマの権力富こそが偶像です。平和が買える、救いが買えるなら、それが間違いであっても同情できますが、所詮は、金銀があれば、富があれば、己の欲望が叶えられるということです。己の欲望こそが、偶像なのです。

 フィリピ書3章19節。

 『彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、

   この世のことしか考えていません』

 詩篇に同様の表現が見えます。偶像崇拝とは、詰まる所、自分の腹即ち欲望を神とすることです。『この世のことしか考えて』いないことです。


○ 話が最初に戻ります。『わたしをおいてほかに神があってはならない』つまりは、自分の欲望に生きてはならないということでしょう。『あなたはいかなる像も造ってはならない』つまりは、無価値なものに心奪われてはならないということでしょう。『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない』、神の名前を自分の便利・都合に利用してはなりません。安息日の戒律については先ほどお話しした通りです。


○ 神の戒律を遵守するとは、文字通り律法的にこれを守ることではなく、自分の欲望ではなく、神さまの御旨を探り行うということです。私たちが自分を律法として生きるならば、世界には、何一つ確かなことはありません。確かなことが何一つないのに、寛容になれるでしょうか。結局は自分の考えが絶対になり、不寛容が待っているのではないでしょうか。本当に神の言葉を聞く者だけが、本当の意味で寛容になれるのではないかと思います。


○ 十戒を一つ一つ読んでまいりますと、これは結局、神を愛し、人を愛するということです。突き詰めて言えば、真実の神を愛する者が、正しく隣人を愛することが出来るし、人を愛する者が、正し句神さまの前に立つことが出来るということです。イエスさまの教えの通りです。