○ 主の言葉が『ベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子』エレミヤに臨みました。ヨシヤ王の13年とあります。この年代自体に大きな意味がありますが、煩雑になりますので今日は触れません。 『わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた』という召命の言葉が告げられた時、エレミヤは、このように答えます。 『ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから』 同じ箇所を、口語訳聖書聖書は、このように訳しています。 『ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません』 『語る言葉を知りません』と『どのように語ってよいか知りません』 両者の違いは、日本語では大きな違いです。『どのように語ってよいか知りません』ならば技術、話術の問題です。『語る言葉を知りません』ならば、語るべき内容、預言を持たないということです。勉強・経験不足ということです。 どちらが正確な翻訳なのか、言語の翻訳の問題では済みません。 敢えて言えば、その両方とも正しいようです。『語る言葉を知りません』し『どのように語ってよいか知りません』なのです。 単に技術・話術のことではありませんし、勉強・経験不足ということでもありません。もっと本質的な意味で、ふさわしくないと辞退しているのです。 ○ 5節からもう一度見ます。 『わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた』 『わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません』 『ただ若者にすぎず』5節が描くような、そんな特別な存在ではありませんと、5節の召命の言葉に反論しているのです。 神さまが、エレミヤを特別に選び、預言者として立てるためにこそ、母の胎内に居る時から聖別したと仰っているのに、これに対して『ただ若者にすぎず』と反論しているのです。 神さまの召命の言葉に対して、自分はその任ではないと逆らうのです。謙遜なのか、我が強いのか、何だか良く分かりません。 しかし、これが実際の所で、エレミヤとしては、心が混乱するのが当たり前かも知れません。 この辺りには、預言者エレミヤの後々までの特徴が見られます。 一番解り易く言えば、神さまとの対話です。神さまの言葉を聞き、それをただ鸚鵡返しにするのではなく、自分の考えを述べる、時に神さまに尋ね、場合によっては逆らう、これが、エレミヤの預言の特徴です。 ○ 私たちの信仰だって同じことでしょう。ただただ服従、聖書に書いてあることなら、何でも鵜呑みにするのが、必ずしも熱心な信仰ではありません。神さまの言葉に真摯に向かい合う時には、疑問も生まれます。悩みも生じます。結果、「どうして、何故」と問わずにはいられません。 『主は与え、主は取りたもう。主の御名は褒むべきかな』 これで済むならよろしいのですが、実際にはそんなに簡単に割り切れるものではありません。 『主は与え、主は取りたもう』、「そんな馬鹿な、とても納得出来ない」、これが私たちの真実です。 簡単に納得してしまえる人は、そもそも、取られた人への思いが足りないだけかも知れません。 そもそも、ヨブ記は、ここから始まって、神さまに向かい、徹底的に何故と問い続ける物語です。神さまに逆らう者ではない、神さまのなさることは全て受け入れよと言った4人の友人たちは、神さまから嘘つきと、退けられます。 ヨブ記42章7節。 『主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。 「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。 お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ』 神さまを擁護する立場から、ヨブを批判した友人たちではなく、徹底的に何故と問い、納得出来ないと神さまに逆らったヨブの方を、神さまは認められたのです。 ○ これ以上ヨブに拘らず、エレミヤ書に戻ります。エレミヤの反論に対して、神は重ねて言われます。7〜8節。 『若者にすぎないと言ってはならない。 わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、 行って わたしが命じることをすべて語れ。 8:彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す』 『わたしが命じることをすべて語れ』口語訳では、『あなたに命じることをみな語らなければならない』です。 逆に言うと、エレミヤの体験や神学やまして話術のことなど問題ではありません。 実際には、エレミヤの預言は、テープレコーダーのように、忠実に正確に神の言葉を取り次ぐという性質のものではありません。既に今日のこの箇所に見られますように、神さまに対してエレミヤが必死に食い下がったり、時に逆らったり、同じように民衆に対しても正面から向かい合って、それがエレミヤ書の内容となっています。特徴でもあります。 しかし、これも既に今日のこの箇所に見られますように、エレミヤ書では、神さまの言葉とエレミヤ個人の見解とは別々に記されて混同がないように記されています。 『わたしが命じることをすべて語れ』です。『わたしが命じることを』です。語るのは神です。神の言葉が語られるのです。 ○『わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す』 今日、エレミヤ書が取り上げられた理由は、この言葉にあります。 しかし、今、この言葉を、クリスマスの話に結びつけて読む必要はないかも知れません。 預言者エレミヤと共に神がある、このことが重要です。当たり前のようですが、この時代には、神さまと共にいない預言者がいたということでしょう。このことも、後々エレミヤ書の重要問題になります。 これは、単に謙遜とかの問題ではありません。預言とは何かということです。 どうして一介の人間が神さまの言葉を取り次ぐのか、取り次ぐことが出来るのかという問題です。 預言という言葉を教会に置き換えても同じことが言えます。人間の集まりでしかない教会が何故、神の家なのかということです。そこにどういう人間が集まっているのか、それが問題ではありません。『わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す』 神さまがそこにおられるかどうかだけが決定的なことです。 そこにどんなに素晴らしい人材が居たとしても、神さまがおられないならば、そこは教会ではありません。人数も少なく、その一人ひとりが弱く小さい人であったとしても、神さまがおられるならば、そこは教会です。 ○『ただ若者にすぎず』というエレミヤの抵抗に対して、神さまが9節で、なさり、語られたことこそ、決定的です。 『主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。 「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける』 エレミヤが語るのは、エレミヤの体験や信仰や、まして、主義主張ではありません。神の言葉がエレミヤの口に入れられました。 別の言い方をすれば、真の預言者は神さまに示されたこと以外のことは語りません。 そして、この預言者の言葉は、一度、預言として語られたならば、10節に描写されるような、権威・力を持つのです。 『見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。 抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために』 ○ ここで脱線のようですが、イザヤ書6章の召命記事を、読んで見ます。 6章6〜8節を読みます。 『するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。 その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 7:彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 8:そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。 誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。 「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」』 エレミヤは、『ただ若者にすぎず』と辞退し、イザヤの方は、『ここにわたしがおります。わたしを遣わしてください』と積極的に名乗り出ました。まるで正反対です。しかし、一番肝心な所では全く同じなのです。 『「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」』 イザヤという一個の人間の唇は汚れており、神聖な神の言葉を載せるにはふさわしくありません。ですから、その唇は祭壇の燃えている炭で清められなければなりません。 そうして、初めてイザヤは、預言者としての任務に赴くのです。 ○ 勿論、教会も同じです。教会も、火で清められて、神のご用に用いられるのです。清めないままに、用いられたならば、それは大変な危険なことなのです。教会が教会でなくなってしまいます。 教会も火で清めるという申しました。しかし、実際には、火では清められません。何で清めたらよろしいのでしょうか。否、清められたらよろしいのでしょうか。 今日の主題ではありませんから、簡単に申します。汚れを洗うのには、先ず、手で塵やゴミを払います。これでは落ちない汚れは、水で洗います。それでも綺麗に出来ないものは火で焼きます。これで最後ではありません。それ以上のこと、それは、聖霊による清めです。 教会は聖霊で清められなければ、主のご用に用いることは出来ません。私たち人間の側で言うならば、聖霊を下さいと祈って、集会なりを始めるのです。教会の業は、祈りによって始められます。それは、形式的なことではありません。 ○ 7節の後半から8節を読みます。 『「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、 行って わたしが命じることをすべて語れ。 8:彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と主は言われた』 何時、何所で、誰に、全て神さまの御心です。人間の知恵で或いは方策で、それを考えるのではありません。選ぶのではありません。だからこそ、何時、何所で、誰に、向かい合うことになろうとも、怖じることはないし、引け目を感じることもありません。 ○ 大分昔、松江時代のことです。ラジオやテレビの番組を持っているフリーのアナウンサーが教会に通い始め、4年間毎週の受洗準備会を経て、洗礼を受けました。私は、東北人ですし早口ですし、また、東京神学大学では、発音や発声などという実際的なことは教えてくれませんから、専門的な勉強をしたことは一度もありません。 そこで、彼に、初歩の初歩から教えて欲しいと頼みました。そうしましたら、彼の言うに、話方という物は、話の内容と結び付いているものであって、内容とは別に話し方の技術を教えるなどということは出来ません。少なくとも、聖書の勉強を始めたばかりの私が、牧師に教えるなどとは、おこがましいことです。そう、断られてしまいました。 伝道するということは、いろんな世界でそれぞれの専門家に出遭うということです。例え話術であっても、技術で太刀打ち出来る筈がありません。知識でもそうです。にも拘わらず、伝道するのは、私たちが、知識や技術を伝えるのではなくて、神さまの命令に従って、神さまが伝えなさいと仰ったことを、そのままに語っているからです。 ○ 9節。 『主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。 「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける』 神さまが、私たちの口の中に入れられたものを、神の言葉を、私たちは、ただ、忠実に、そのままに、人々に伝えるのです。相手を選ぶのも私たちの仕事・判断ではありません。神さまが命じられた所に出て行くのです。 ○ さて、この説教には矛盾があります。相矛盾する二つのことをお話ししました。それは、そもそもエレミヤの預言の矛盾です。 エレミヤは神の言葉を、そのままに、人々に伝えます。預言します。しかし、今日の箇所にも見られますように、一方で、神さまの言葉に抵抗します。何の疑念も反発もなく、テープレコーダーのようにして、神さまの言葉を忠実に語っていてるのではありません。 自分で考え、疑問を持ち、それを神さまにぶつけ、結局神さまに圧倒されて、神さまの言葉を、そのまま忠実に語ります。 ○ 私たちだって同じです。神さまの言葉を聞きます。その中にはとても素直に受け止めることの出来ないものがあります。そこで、立ち止まり考え、時には抵抗し、そして結果従うのです。 『ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、 非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた』 使徒言行録17章11節です。熱心とは、何の疑いもなく聞き入れ、躊躇なく従うことではありません。熱心だからこそ、調べるのです。学ぶのです。 |