○ 55節。 『祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、 得られなかった』 私たちはイエスさまの十字架の出来事を既に知っていますから、つい見逃してしまいがちですか、ここには、とんでもないことが書いてあります。 『死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた』。予め、結論を出していて、その結論に導くために、証拠集めがなされたと言うのです。これは、正に冤罪の構造です。予断と偏見でなされる捜査・裁判を冤罪と呼びますが、ここに記されていることは、その典型です。 あいつが犯人だと決めつける予断、それに基づいた捜査が冤罪を生むと言われます。見込み捜査は危険です。しかし、ある程度目星がなければ捜査などできないかも知れません。 55節に記されていることは、そんな程度のことではありません。『死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた』、見込み捜査でさえありません。予め死刑という刑罰まで決めて、それに適合する証拠を捏造しています。 ○ それどころか、56節。 『多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである』 予断と偏見でなされる捜査・裁判が冤罪なら、これは何と呼びましょうか。偽証人が用意されていました。これは冤罪をも通り越しています。裁判に名を借りたリンチに過ぎません。リンチに過ぎないことをしていながら、つまり、ただの暴力なのに、それにもっともらしい理由を付けて、己の行為を正当化しています。 悪魔の仕業を、神の名前で遂行しています。このこと自体が恐ろしい暴力であり、悪巧みであり、何とも、不信仰な行為です。神の名前を騙った、単なる暴力です。 聖書全編について当て嵌まることですが、ユダヤ教は義を追求する宗教です。更に、公正な裁きをとても大事にします。ユダヤ人はその歴史を通じて、「私たちは不当な苦難を受けている、神さま私たちに正しい裁きの場を与えて下さい」と祈っています。正しい裁判が行われることこそが、ユダヤ人の求める義です。 ○ しかし、この時代、つまり、マルコ福音書が記され、読まれた時代は、このようなインチキな裁判が横行していたのでしょう。律法の名の下に、或いはローマ皇帝の正義の名の下に、予断と偏見で、多くのキリスト者が、裁判にかけられ、殺されたのです。 そもそもこの時代も、ユダヤ人が不当な弾圧を受けて苦しんでいました。ローマ皇帝の名の下に行われる裁判ではなく、神の名前の下に行われる正しい裁判を求めていた筈です。しかし、大祭司にとって憎い敵であるイエスのこととなると、話は全然別になります。ローマの力を借りてでも、イエスさまを死刑にしようと頑張ります。ここでローマの力を借りたら、それが既成事実となって、ローマが宗教に介入することになるとしても、何とか死刑にしたかったのです。 ○ 57〜58節。 『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、 三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせると言うのを、わたしたちは聞きました』 証拠の捏造がなされました。まるっきり何も無い所から持って来た証拠ではなくて、本物を上手く加工して、全然別物に作り変えてしまっています。 元の話を私たちは知っています。つまり、13章2節。 『イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。 一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」』 これを、作り替えました。 『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、 三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』 似てはいますが、全然強調点が違います。発言の一部を故意に歪め、一部だけを抜き出した、悪意による捏造と言わなければなりません。 このような歪んだ聞き方、読み方が許されるはずがありません。 しかし、現実に、まま見られるのです。真に聞こうとしていないと、何か言質をとってやっつけてやろうなどと思って聞いていては、話は歪んでしまいます。 ○ ところで、イエスさまは、ヨハネ2章19節でこのように仰っています。 『イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」』 これだと、マルコ福音書に述べられた偽証と大変近い印象がします。 しかし、矢張り強調点は違いますし、マルコ福音書の文脈では、偽証として扱われていますから、私たちは、イエスさまを神殿破壊者と見る必要は無いと考えます。少なくとも、他のいろんな箇所と照らして、イエスさまを暴力革命を唱える人物と見ることは不可能です。 ここでも一端イエスさまを暴力をも辞さない革命家と決めつけて、聖書を読んだら、その証拠を拾い集めることは可能でしょう。しかし、自分の主張に都合良く言葉の断片を集めたら、個々の断片は正確だとしても、それは偽証です。 ○ マルコ福音書14章60節。 『そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。 「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」』 大祭司は、誘導尋問を始めました。一応形だけを見ますと、公正な立場に立った発言と聞こえます。不利な証言を黙って聞いていて良いのかと、弁明の機会を与えています。しかし、何かしらものを言わせて証拠とするためです。簡単に言えば罠に過ぎません。マルコ福音書は大体にそのような描き方をするのですが、極めて偽善的です。 ○ 更に、61節。 『しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、 「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。』 実際には質問ではありません。正に誘導尋問です。罠に過ぎません。 マルコ福音書を通じて、所謂論争物語が、頻繁に描かれています。そこで、律法学者がファリサイ人か、またはサドカイ人が、様々な仕方で、様々な問いを、イエスさまに投げかけます。しかし、その殆どは、真の問いではありません。罠であったり、皮肉であったり、その両方であったり、とにかくに、悪意を持ってイエスさまに向き合います。 私たちの中にも、そのような思いがあります。心の底から、お願いしているのでもなく、尋ねているのでもなく、つぶやきを言います。拗ねて、歪んだ問いをもって、イエスさまに向き合うのです。 そのような私たちにも、イエスさまを陥れる、そんな気持ちは微塵もありません。しかし、世の中にはそのような人も存在します。信じるためではなく、救いを求めてではなく、イエスさまを、聖書を、貶めるためだけに、聖書を読む人が存在します。負の拘わり方しか出来ないのです。憎しみや恨み妬みという負の関係でしか他人と拘わることの出来ない人もいます。 ○ 62節。 『イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、 天の雲に囲まれて来るのを見る。」』 このような悪意に満ちた罠に、イエスさまはまんまと嵌ってしまいました。仕掛けられた罠に落ちました。しかし、イエスさまは敢えて、そうなさったのです。 これもマルコ福音書に頻繁に見られる特徴です。悪霊が『神の子よ』とイエスさまに呼び掛け、イエスさまを十字架に架ける兵士が、『イスラエルの王よ』呼び掛けます。これは、大いなる逆説です。 この箇所でも、大祭司が悪意でイエスさまを罠に掛け、大ダメージを与えたようでいて、実は、このことによって、いよいよ明白に、『イエスさまがキリストであることが』高らかに宣言されています。大祭司が追いつめれば追いつめる程、イエスさまがキリストであることか明らかになって行く、マルコ福音書には、そのような逆説が数多く見られます。 ○ この箇所は、私たちにとって決定的に重要な箇所です。ここで、イエスさまご自身が、明白に、『キリストである』と告白なさっておられるからです。 当然、この言葉はイエスさまの真性のものではなくて、マルコ福音書の編集であると言う人がありますでしょう。しかし、私たちにとっては、マルコが言ったというだけで充分です。私たちは、これが聖書である、神の言葉であると信じているからです。 マルコ福音書はそのように記しているけれども、聖書にはそのように書いてあるけれども、歴史的には、…と言う人の気持ちは私には理解出来ません。マルコ福音書が聖書でないなら、これが神の言葉でないならば、私たちは、他の何処でも、イエスさまにお会いすることは出来ません。福音書をバラバラにして、その中から事実を抜き出し、事実ではないものを棄てたら、歴史上のイエス・真のイエスが浮かび上がると考える人がいます。 しかし、マルコ福音書の一番肝心なメッセージを受け止めないならば、信じないならば、最早、マルコ福音書を読む理由は何処にもないと、私は考えます。 神の言葉ではないけれども、マルコ福音書を資料として、何事かを知ることが出来るとか、地上を歩まれた実際のイエスさまの姿をかいま見ることが出来ると言う考えは、私には理解出来ません。 そんな半端なことはよした方がよろしいと思います。 マルコ福音書のメッセージを、真っ正面から受け止めるか、さもなくば、信じるに足りないと退けるかです。二つに一つです。 ○ 63〜64節。 『大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。 64:諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した』 大祭司は、『その衣を引き』とあるように、パフォーマンスを見せました。イエスさまが『自分はキリストである』と告白なさったことを、神への冒涜であると受け止めての行動です。本当にそのように思ったのならば、怒りに任せてやったことだったならら、未だ救いがあるかも知れません。 でも、もし、これでイエスを有罪に出来る、やったぜと言う様な気持ちがあったのなら、彼には、もう救いの可能性はないでしょう。 ○ 大祭司は、最早決定的な証拠、決定的な証言を手に入れました。決定的な証拠、決定的な証言です。それは、イエスさまを十字架に架けるのに充分な根拠であるかも知れません。 しかし、同時に、私たちキリスト者にとっても、決定的な証拠、決定的な証言です。 イエスさまはキリストなのです。 イエスさまは、『自分はキリストである』と告白なさったから、十字架に架けられたのです。 このマルコ福音書14章で、それが明言されているのです。 私たちは、最早、バプテスマのヨハネや他の者のように、『あなたですか』と問う必要はありません。イエスさまご自身が、『自分はキリストである』と告白なさったのですから。 ○ 64節の末尾は見逃してはなりません。 『一同は、死刑にすべきだと決議した』 皆が、イエスさまを十字架に架けたと記されます。これがマルコ福音書の特徴です。誰がではない、皆が、マルコ福音書はそのように強調しています。 ○ 65節。 『それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、 「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った』 この描写は、勿論、イザヤ書の『苦難の僕』を踏襲したものです。そして、15章のバラバの出来事の伏線になっています。ここでも、誰が十字架に架けたのか、真犯人は誰か、他の誰でもない、群衆であり、皆であり、つまりは、私なのだというのが、マルコ福音書の主張です。これがマルコ福音書の主題です。 誰がイエスさまを十字架に付けたのか、誰がイエスさまを裁いたのか、誰が神さまを裁いたのか、これがマルコ福音書の主題です。私たちは、自分の言葉でイエスさまを裁いてはいないのか、旨に手を当てて考えなければなりません。 ○ 本日の説教題は『生ける者と死ねる者とを審き』です。学び続けている使徒信条の一部です。 『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、 陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、 全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、 生ける者と死ねる者とを審きたまはん。』 イエス様は裁かれ、『十字架につけられ、死にて葬られ』ました。『ポンテオ・ピラトのもとに』、つまりローマによって裁かれました。聖書に依れば、裁いたのは、その主犯はピラトよりもむしろ大祭司や長老たちであり、むしろ『十字架につけよ』と叫んだ民衆です。 彼らは、本来裁く側ではなく、裁かれる側です。裁かれなくてはならないのは、ピラトでありむしろ大祭司や長老たちであり、むしろ『十字架につけよ』と叫んだ民衆です。 ○ 旧約聖書に登場するユダヤ人たちは、不当な苦難に苦しみ、神による正しい裁きを求めていました。彼らが求めるメシア救い主とは、正しい裁きをなさる方です。正しい裁きをなす力と権威とを持った方です。『かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん』 正しい裁きが行われることこそが救いです。 私たちは「憎いあの者を裁きたまえ」と祈ってはなりません。「我を裁きたまえ」と祈るべきです。正しい裁きをなさる方の法廷で、正しく裁かれることこそが救いだからです。 |