日本基督教団 玉川平安教会

■2020年9月6日

■説教題 「死にて葬られ
■聖書  ヨハネによる福音書 19章38〜42節 


○ 一昨年、ヨハネ福音書を連続して読んだ時に、当然、今日の箇所も読みました。その時にも、先ずヨハネ3章に触れました。触れたという程度のことではなくて、どちらの箇所がメーンのテキストだったのか分からない程だったかと思います。

 今日も、ヨハネ3章に記されていることと比較しながら読んでまいります。


○ ヨハネ19章38節。

 『その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、

   そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、

   ピラトに願い出た』

 アリマタヤのヨセフについては、先週読んだことですので、詳しくは触れません。ただ、先週のマルコ福音書15章43節をもう一度確認しておきたいと思います。

 『アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラ トのところへ行き、

  イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た』

 二つの福音書のヨセフについての記述は、一致しています。

 つまり、ヨハネでは『イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて』

 マルコでは『勇気を出して』

 この二つは符合します。『イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて』いたけれども『勇気を出して』、ピラト総督を訪ね、遺体の引き取りを願い出ました。


○ その延長で、39節が記され、ニコデモが登場します。

 『そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、

   没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た』

 ヨセフは『イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて』いたけれども『勇気を出して』、ピラト総督を訪ね、遺体の引き取りを願い出た話に直結して、ニコデモのことが記されています。更に、『かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも』と、わざわざ念を入れています。読者に思い出させています。ヨセフとニコデモと二人には大きな類似点があるのだと指摘しています。


○ ここでヨハネ福音書3章のニコデモが登場する場面を振り返らなければなりません。先ず1〜2節。

 『 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

   ある夜、イエスのもとに来て言った』

 『議員であった』ことがヨセフと一緒です。ここでも両者の共通点を上げています。

 また、3章の『ある夜』という表現が、19章の『かつてある夜』に踏襲されています。

 夜に拘っています。ヨハネ福音書は時という概念を大事にしますから、拘っても不思議ではありません。

 夜という時間に、特別な意味を見出そうとする読み方があります。

 細かいことは略して簡単に言いますと、夜は神と人間との対話にふさわしい深遠な時だと言うのです。そうかも知れません。特に旧約聖書には、夢の中で神さまの言葉を聞く話があります。その物語の主人公もヨセフです。ヤコブにも、預言者サムエルにも、夢の話があります。

 新約にもあります。ここでも、ヨセフです。使徒言行録には、パウロの夢は、伝道の幻として語られています。

 夢は普通夜に見ますから、夢の中で神さまの言葉を聞く話をもって、夜は神と人間との対話にふさわしい深遠な時だと言うのも分かります。しかし、それはあくまでも夢の話です。

 『ある夜、イエスのもとに来て言った』のも、イエスさまと深遠な話をするためでしょうか。そうかも知れません。実際に、深遠な話が展開されています。少し長いのですが引用します。

 『「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

  4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。

   もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

  5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。

   だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

  6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である』


○ しかし私は、自分が深遠な議論をする人ではないからでしょうか。『ある夜、イエスのもとに来て言った』とはもっと単純な意味ではないかと考えます。

 ヨセフと同じ理由です。ヨハネ福音書は、ヨセフとニコデモとの類似点を上げています。ここも同じでしょう。

 ヨセフは『イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて』いました。つまり自分の信仰を公には出来ませんでした。ニコデモも同じく『イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて』いたから、夜、闇に紛れて、イエスさまを訪ね、質問したのではないでしょうか。

 ペトロがイエスさまを知らないという場面にも描かれますように、当時のエルサレムの闇夜は、私たちには想像出来ないほどの漆黒の闇だったでしょう。


○ さて、そのニコデモが、これもヨセフと同じように、イエスさまの死を目の前にして、実に覚悟の必要な行動を取ります。ニコデモはヨセフにくっついてついでにやって来たのではありません。ヨハネ19章40節。

 『彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、

   香料を添えて亜麻布で包んだ』

 ニコデモはヨセフと一緒に行動しました。『彼らはイエスの遺体を受け取り』とあります。二人で一緒にです。もしこれが後々大祭司たちやサンヒドリンの議員たちに憎まれる行動ならば、ニコデモはヨセフと同罪です。

 

○ しかも、39節。

 『そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、

   没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た』

 二人は完全に示し合わせて行動しています。特に『ニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た』

 イエスさまの十字架の死は午後3時です。日没が6時として、時間がありません。その短い時間に、ニコデモは『没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た』のです。ここには些かの逡巡もありません。逡巡している暇はありません。

 ヨハネ12章には、ラザロの姉妹マリヤが、香油でイエスさまの足を洗い、それをイスカリオテのユダに咎められます。

 『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか』

 香油は大変に高価です。方や値段、方や分量で、単純に比較出来ませんが、同じ分量だとすれば、1デナリが労働者1日分の賃金ですから、300万円から600万円、とてつもなく高価です。

 ニコデモは金持ちだったのかも知れませんが、これをにわかに調達することも大変だったでしょう。たまたま買い置きがあったのでしょうか。いずれにしろ、ニコデモの行動は思いつきでは出来ません。明確な覚悟をもった行動です。


○ ヨハネ3章に戻ります。

 『ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、

   あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

  神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、

  だれも行うことはできないからです』

 ニコデモはイエスさまのことを、『神のもとから来られた教師である』と認めています。その理由は、『神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです』と述べています。

 しかし、その一方、イエスさまが『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』と教えられると、反論します。

 『ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。

  もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』 

 常識が邪魔をするという言葉があります。正にこのことでしょう。そしてこの常識は、

 『ファリサイ派に属する〜ユダヤ人たちの議員であった』からこそでしょう。


○ ヨハネ3章をもう少し見ます。

 『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、

   どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」』

 イエスさまがこのように教えられると、

 『するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った』

 矢張り常識で反論します。

 この問答は続きます。

 『わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、

   どうして信じるだろう』

 全くその通りでありましょう。常識家のニコデモに信じられる筈がありません。


○ ならば、ニコデモは、どこで、何故に変わったのでしょう。ヨセフも同じことです。『イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが』、人目を憚って夜こっそりとイエスさまを訪ね、教えを乞いながら、その教えに満足できなかったニコデモが、何故、おおっぴらに『イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た』のでしょう。『没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た』のでしょうか。


○ かつてと比較して状況は好転したのでしょうか、全く逆です。事態は深刻化していました。危険が増していました。

 それでは、ニコデモの理解が深まったのでしょうか。そうかもしれません。4つの福音書は何も記していませんが、ニコデモは学びを深めて、イエスさまを理解し、教えを信じていたのかも知れません。しかし、ならばそのことを何も記していないのは不可解と言うべきです。

 むしろ、絶望的になったのではないでしょうか。マルコ福音書に依れば、かつてニコデモは、

 『神の国を待ち望んでいた』とあります。今日の箇所の並行記事です。

 『神の国を待ち望んでいた』ニコデモは、しかしイエスさまが神の国の到来、永遠の命について解き明かしたのに、それに頷くことが出来ませんでした。

 イエスさまをイエスさまの教えを求め続けながらも、しかし、確信を得ることが出来ませんでした。神の国を知り、神の国に入れられる望みは、イエスさまの死によって絶たれました。ならば、決断しかありません。ここで決断できなければ、最早神の国の希望は全く潰えます。


○ イエスさまのお言葉を直接に戴きながら、決断できなかった者が、イエスさまの死によって絶望を見た時に決断出来るでしょうか。

 出来たのではないでしょうか。それが十字架ではないでしょうか。

 かつてニコデモは、自分の立場をおもんぱかっていました。議員であること、ユダヤ教の学者であること、そういうことが邪魔して決断出来ませんでした。決断を思い止まらせました。しかし、イエスさまの死、イエスさまの十字架の出来事に直面した時に、絶望に捉えられたかも知れませんが、同時に、十字架しか見えなくなったのであり、自分の社会的立場などは、もう何も見えなくなったのではないでしょうか。

 何も見えなくなった時に、イエスさまへの信頼、愛が見えたのではないでしょうか。


○ 視点を180度変えてみます。ヨセフもニコデモも、社会的な地位や富に恵まれながらも、眞に幸福を覚えることはありませんでした。国がローマに占領されている現実を見れば、当然かも知れません。また、信仰的な意味でも、本当の満足そして心の平和はありませんでした。『神の国を待ち望んでいた』からです。にもかかわらず、ローマからもサンヒドリンからもユダヤ教からも自由になることは出来ませんでした。迷い続けていました。その中で、イエスさまだけが希望でした。その希望が潰えました。

 希望が消えた時に、社会的な地位や富にも、一層のむなしさを感じたのではないでしょうか。

 それが政治家としては致命的なことかも知れない、ピラト総督に姿態の引き取りを願い出るという行動を取らせ、高価な香油を用意しイエスさまに捧げるという行動を取らせたのではないでしょうか。


○ 私たちも、全き決断を与えられるのは、人間的な望みが絶たれた時ではないでしょうか。何かで躓き、絶望感を覚えたことが信仰への決断となった人は少なくありません。いろいと事例を挙げるまでもありません。

 イエスさまのお琴パウロに触れ深く感銘を受けながら、しかし、十字架に躓いて去った人が福音書には大勢登場します。しかし、逆に十字架の出来事を見上げることで、真の信仰を与えられ、その信仰を言い表した人も登場します。十字架を見上げ、『「本当に、この人は神の子だった」と言った』百人隊長がいます。ダマスコへの途上でイエスさまを体験した使徒パウロも、その一人です。

 既に申しましたように、絶望を果てに、十字架のイエスさまを見た人は少なくありません。 


○ 40節。

 『彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、

   香料を添えて亜麻布で包んだ』

 これは、復活期待とは言えないでしょう。ユダヤ人の習慣に従っています。彼らの限界かも知れません。決断してイエスさまへの愛を言い表した二人も、その人間性までは変わりません。染みついたユダヤ人、律法学者の性質は変えようがありません。しかし、二人は最早決定的に変えられています。なにしろ、信仰を言い表したのですから。


○ 41節。

 『イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、

   だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった』

 墓の清浄なことを表現しているのかも知れませんが、そんなことよりも、『だれもまだ葬られたことのない新しい墓』、つまり復活の場所となる墓であり、神の国の始まりとなる場所であることを表現していると考えます。アブラハムの昔から、墓こそが新しい神の国の始まりです。

 『神の国を待ち望んでいた』彼らの願いは、実にこの埋葬から実現が開始されたのです。

 4つの福音書は、この後の二人について何にも記していません。しかし、二人の信仰は神の国への信仰へと結実していったと思います。私たちの信仰も、絶望から墓から始まります。イエスさまが『死にて葬られ』たことが、私たちの信仰の契機となるのです。