日本基督教団 玉川平安教会

■2020年8月16日

■説教題 「ピラトのもとに
■聖書  マルコによる福音書 15章6〜20節 


○ 6節から読みます。

 『ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた』

 『祭りの度ごとに … 囚人を一人釈放していた』、祭りの際に恩赦・特赦があっても、不思議ではありません。ローマの総督であるポンティオ・ピラトが、民衆の不満をそらす政策として、祭りの恩赦・特赦を導入したとしても怪しむには足りません。

 しかし、一方で、そのような歴史上の記録はないと言われていますので、結局、正確な所は不明です。

 この出来事が歴史的に事実かどうかではなくて、もし、事実ではないなら尚更、何のために、何を言わんとして、この出来事が記されたのかを、私たちは、読みとらなければなりません。


○ 7節。

 『さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた』

 バラバという名前は、バル・アバつまり、「父の子」もしくは「ラビ(教師)の子」の意味になります。ルカ福音書によれば「殺人者」、ヨハネ福音書では「強盗」と記されています。

 マルコでは、『暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たち』、単なる強盗や殺人者ではなくて、政治犯だったのかと創造させられます。

 何れにしろ、定冠詞付きで、日本語の表現だったならば、「かのバラバ」というような表現がなされていますので、当時のエルサレムでは良く良く知られた人物だったようです。

 ある写本には「イエス・バラバ」とあるそうです。これに基づけば、ここに居合わせた群衆は、「イエス・バル・ラバ」か、「イエス・バル・ヨセフ」かの選択を迫られ、「イエス・バラバ」を選んだということになります。

 革命的な暴力行為の故に死刑判決を受けていたバラバとイエスさまが、対比的に描かれていることは、イエスさまが暴力革命を否定したために群衆によって退けられたと理解することも出来るかと思います。少なくとも、その逆ではありません。イエスさまを革命家、それも暴力革命を否定しない革命家と見ることには、全く根拠がありません。イエスさまを革命家とみなすことは不可能だと、私は考えます。


○ 8節。

 『群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた』

 『群衆』です。当然、オクロスが用いられています。既に、繰り返し申し上げていますように、マルコ福音書では、この群衆という字が、特別の意味合い、特別の強調を持っています。

 ここで、イエスさまを十字架に付けた張本人は、群衆であるという事が、明らかにされているのです。

 このことも既に繰り返し申し上げています。マルコ福音書は推理小説のように、イエスさまを十字架に付けた犯人探しをしているかのようです。最初、犯人に擬されたのは、律法学者・ファリサイ人でした。そこから、ペテロ、ユダ、ローマ兵、大祭司、ピラトと、真犯人の容疑者が入れ替わり、ついには、群衆に行き着くのです。

 マルコ福音書はそのような構造を持っていると思います。このことは、だれか権威或る新約学者が言っていることではありません。私の想像ですが、一度そのような観点で読んで頂きたいと思います。きっと、私の説に賛同して頂けると思います。

    

○ 9節。

 『そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った』

 『あのユダヤ人の王を』、ピラトは12節でも同様にイエスさまを、『ユダヤ人の王を』と呼んでいます。これに対して、ユダヤ人は、『十字架に付けよ』と叫んだのですから、結果、群衆は『ユダヤ人の王を十字架に付けよ』と叫んだことになります。

 この辺り、マルコ福音書は実に巧みです。新約学的にはどうかと言いますと良く分かりませんが、文学的には、計算された高度なテクニックです。間違いありません。

 かつて、マルコ福音書は資料を押し込んだだけで、統一した編集の観点がないというように言われていました。マルコ福音書には神学がないと言う人までいました。とんでもない。大まかなようでいて、実に技巧的だし、極めて神学的です。その神学、統一した編集の観点とは、『十字架に架けられたユダヤ人の王』です。

 マルコ福音書の主題は、群衆が『ユダヤ人の王』を『十字架に架けた』、それによってこそ、救いがもたらされるという大いなる逆説です。


○ 10節。

 『祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである』

 少なくともピラトはそのように見ました。マルコ福音書は、このピラトの見解が正しいとしています。

 妬み、そんなことのために、と私たちは思います。イエスさまが十字架に架けられるのだから、もっと深い、もっとそれらしい理由があったのだろう、むしろ、あって欲しいと私たちは考えます。そのような観点から描かれた小説は沢山あります。祭司長たちがイエスさまを憎み、十字架に架けた理由を探る小説が沢山あります。

 しかし、マルコ福音書は、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためだと言い切っています。

 そして、ピラトが最終的に十字架刑を承知したのは、治安の維持のため、まして、ローマの兵士たちがイエスさまを愚弄したのは、いやいややりたくない仕事をさせられたから、クレネ人シモンがイエスさまの十字架を担いだのは偶然。

 マルコ福音書は、そのように描いています。

 いやいややりたくない仕事をさせられたローマの兵士たちについては、この説教の終わりのところで触れます。

 クレネ人シモンのことは、次週の説教で取り上げます。


○ つまり、本当は、誰もイエスさまを十字架に付けた犯人ではないとも、言えます。イエスさまは誰かのために、十字架を強いられたのではなく、自らゴルゴダの丘へと歩まれたのです。

 矛盾と言えば矛盾ですが、マルコ福音書はそのように描いています。

11〜12節。

 『祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。

 12:そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、

   どうしてほしいのか」と言った。』

 同じようなやり取りが再度繰り返されます。

 祭司長たちの狙いは、イエスさまを十字架に架けることです。そのために、特赦に与るのはバラバの方でなくてはなりません。しかし、群衆にとっては、むしろ逆です。群衆は、ローマに反抗した英雄であるバラバの方を助けたい、そこで、イエスさまを十字架に付けろと叫んだのです。英雄と言っても、実際に特赦に与ることが出来る程度です。決して、ローマの驚異になる程の存在ではありません。ケチな英雄です。このケチな英雄を助けるために、群衆は、イエスさまを十字架に付けろと叫んだのです。

 諄いのですが、マルコ福音書はそのように描いています。

 つまり、マルコ福音書は、イエスさまを十字架に架けた真犯人を追求して来たのですが、最後の最後で、犯人たる群衆に、積極的な殺意が無かったと言うのです。

 これは、勿論、群衆を庇うためではありません。むしろ、この表現によって、群衆を鋭く告発しているのです。

 

○ 13節。

 『彼らは、また叫んだ、「十字架につけよ」。』

 ところで、イエスさまを殺そうと図った話は、今までにも出で来ていますが、直接、十字架に言及されるのは初めてです。イエスさまご自身の受難予告も、直接十字架に触れてはいません。

 ここでも、イエスさまを十字架に付けた張本人は、群衆であると明らかにしているのです。

 『群衆はまた叫んだ』 とありますが、群衆が叫んだのは、この場面では此処が最初です。にも拘わらず、『また』と述べることで、群衆が何度もシュプレヒコールのように叫んだことを表現しています。

 しかし、真にイエスさまが憎かったというのではありません。もののついでみたいなものです。そこにこそ、真の罪が存在します。


○ 14節。

 『ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、

   「十字架につけろ」と叫び立てた』

 真にイエスさまを憎んでいるのなら、ピラトが『いったいどんな悪事を働いたというのか』と尋ねた時に、直ちに答える言葉があった筈です。『何々したからだ』と答える筈です。しかし、実際には、そんなものはありません。

 特に上げるべき罪も、憎しみもありません。だからこそ、唯、『「十字架につけよ」と』繰り返すばかりです。

 

○ 14節。

 『ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、

   「十字架につけろ」と叫び立てた』

 意図的に繰り返されていることは、明らかです。

 最早、群衆は、酔ったように、『十字架につけよ』と叫び続けます。

 かつて、奇蹟を求めて群がったのも群衆、エルサレムの都に入城するイエスさまをホサナと叫んで迎えたのも、群衆、この群衆は全く同じ群衆なのです。

 『悪事』と訳されている字は、道徳的な悪、犯罪行為などに用いられる言葉です。

 ピラトが、『あの人は、いったい、どんな悪事を働いたのか』と聞いているのに、つまり、未だ裁判を続けているのに、群衆は、『十字架につけよ』と叫び続けます。つまり、裁判を打ち切り、死刑の判決を下したのは、群衆なのです。


○ いろんな王さまが登場しては、群衆に歓喜をもって迎え入れられます。しかし、この王さまは、やがて群衆を戦場へと送り出し、その生命を犠牲にします。国のために、親兄弟を守るために、正義のために、いろんな大義が唱えられますが、要は、若者を戦場に送り出すのです。そうして、結局、群衆は王を守るために、命を捧げることを強いられます。

 しかし、このイスラエルの王は、全く逆の存在でありまして、自ら、十字架へと向かいます。

 私たちが信ずるのは、私たちの真の王は、この方、十字架に架けられた王です。


○ 15節。

 『ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、

   イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した』

 『鞭打ってから』、骨や金属の付いた革で打つ、実に過酷な刑です。

 私たちが信ずる方は、私たちの真の王は、十字架に架けられた方であり、鞭打たれた方です。

 16節以下に記されていることも、皆、数えなければなりません。私たちが信ずる方は、愚弄され、唾を吐きかけられた方です。


○ 省略した格好になった1〜5節の内、2節について、『お前がユダヤ人の王なのか』、ピラトのこの問いに、イエスさまは答えられました。『それは、あなたが言っていることです』、口語訳聖書では、『そのとおりである』となっています。

 この問答は何を意味するのか、これは王としての宣誓です。つまり、この後に起こる十字架は、真の王の即位式なのです。十字架は、真の王の着くべき王座なのです。


○ 16節以下を簡単に取り上げます。17〜18節。

 『そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、

  18:「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた』

 この兵士たちは勿論ですが、イエスさまを『ユダヤ人の王』とは思っていません。しかし、『紫の服を着せ』『冠を編んでかぶらせ』『「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し』たこと、全て王の即位式です。

 つまり、この後の十字架の出来事が王の即位式であることを、このような仕方で、極めて逆説的な仕方で描き出しています。

 『また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした』

 愚弄です。

 イエスさまは、およそ王らしくない姿で、王にはふさわしくない場所で、王にはふさわしくない母親から誕生しました。そして今、およそ王らしくない姿で、王にはふさわしくない場所で、王にはふさわしくない仕方で王に即位しました。それが私たちが信じる王、キリストです。

 先週聖書研究祈祷会で読んだばかりのローマ8章3節。

 『律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。

  つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、

  その肉において罪を罪として処断されたのです』

 このようなお姿のイエスさまを、私たちはキリストと信じるのです。このようなお姿のイエスさまが、イエスさまだけが、私たちを罪の世から救い出して下さいます。

 私たちは『バラバを』と叫んではなりません。十字架のイエスさまではない、地上の王のように贅沢に着飾り、きらびやかな宮殿に住む者を王としてはなりません。

 キリスト教系でも、神道系でも、様々な新興宗教は、きらびやかな大伽藍を設け、王さまのように着飾り、仰々しい儀式を執り行います。多くの人はそこに魅せられ、信用します。しかし、そんな所に、キリストはおられません。おられるのは十字架の上です。