日本基督教団 玉川平安教会

■2020年9月27日 説教映像

■説教題 「天に昇り
■聖書  マタイによる福音書 28章11〜20節 


▼11節から、順に読みます。

 『婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、

   この出来事をすべて祭司長たちに報告した』。

 『この出来事』とは、二人のマリアがイエスさまの埋葬された墓に出かけて、天使に遭遇したこと、更には復活のイエスさま本人にあったことを指します。

 そうしますと、この表現には、実に不思議な意味が込められていることになります。


▼先ず、『婦人たちが行き着かないうちに』つまり、二人のマリアたちよりも早く、『番兵は都に帰り』『この出来事を』『報告した』とあります。

 復活の出来事を、誰よりも早く、都イスラエルに伝えたのは、実は番兵たちでした。その後のキリスト教の歴史は2000年以上重ねられています。その歴史とは、『イエスは十字架に架けられたが復活した』、『だからこそ、イエスはキリストである』、『私たち人間の救いはただイエス・キリストにかかっている』という宣教の歴史です。

 そのまことに記念すべき、最初のメッセンジャーは、イエスさまの墓を見張っていた番兵たちでした。弟子たちでもなく、マリアを初めとする女たちでもなく、イエスさまの墓を見張っていた番兵たちです。

 このことは、他の福音書とは内容が違います。違うだけに、マタイははっきりと意識して、これを記しているのだろうと考えます。

 つまり、最初のメッセンジャーは、イエスさまの墓を見張っていた番兵たちなのだという記述は、マタイのメッセージなのです。


▼そして、最初に、この出来事を聞いたのも、祭司長たちです。

 弟子たちよりも早く、教会よりも早く、この出来事を伝えた者がいたし、聞いた者がいました。

 しかし、彼らはイエスさまを信じません。その後に従うこともありません。これはマタイのメッセージです。福音に触れた者が、皆、イエスさまを信じる訳ではないし、その後に従うこともありません。福音宣教の当初からそれが現実でした。

 想い起こしてみれば、イエスさまの誕生をいち早く知ったのも、ヘロデであり、律法学者たちでした。しかし、彼らはイエスさまに会うどころか、ヘロデはイエスさまを殺そうとしました。

 この記述はマタイ2章にあります。マタイ2章と28章は符合します。


▼『この出来事を全て』とは、直接的には、28章2〜3節のことでしょうか。

 『すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、

   石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

  3:その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった』。

 これだけの出来事を目撃した番兵たちが、4節のようになったのは、当然です。

 『番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった』。

 復活の出来事に遭遇した者が、『死人のようになった』というのは、これは、意味深です。極めて重要なことです。

 人は復活の出来事に遭遇した時に、その出来事を知った時に、『恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようにな』ったのでした。

 復活のニュースは何となく、ほんわりと信じ、受け入れるような事柄ではありません。

 ですから、これは私見かも知れませんが、復活の福音を、分かり易くほんわりと語り、何となく理解して貰うなどという伝道はありえないと思います。それは絶対に不可能です。


▼クリスマス、次はカーニバル、バレンタインデー、ハローウィン、これからはイースターだそうです。イースターのシンボルは何故かウサギです。聖書的根拠は全くありません。商業上の戦略です。イースターもやがて日本に定着するかも知れません。しかし、これらはキリスト教を歪めただけで、福音宣教という観点で見れば、少しの貢献もありません。

 それなのに、教会がこれらの堕落しきった祭りに追随するのは、愚かという表現さえ通り越しています。


▼結局、番兵たちの目撃談は、福音ではありません。番兵たちは、女たちよりも早く、この出来事を伝えましたが、それは、福音ではありません。

 番兵たちは、あくまでも天使を見たのであって、復活の主に出会ったのではありません。勿論、そのことも、福音ではないと言う理由に数えられますが、それよりも何よりも、彼らは、イエスさまを救い主と信じてはいません。救い主と信じていない者は、福音を伝えることは出来ないのです。

 彼らは、自分たちの見たことの全てを伝えました。全てとは、事実をということかも知れません。しかし、それでも福音ではありません。事実を事実のままに正確に伝えたとしても、それが即ち福音ではありません。

 何故なら、信仰がないからです。全てを伝えたようでいて、実は何も伝えていないのです。


▼このことも私たちに当て嵌めて考えなくてはならないことでしょう。私たちは何を語り、何を伝えているのかということです。

 『イエスは十字架に架けられたが復活した』、『だからこそ、イエスは基督である』、『私たち人間の救いはただイエス・キリストにかかっている』ということを伝えなければ、何も伝えたことにはなりません。

 それは伝える対象が子どもだろうと、老人だろうと、同じです。相手が教養人だろうが、そうではなかろうが、同じです。


▼信仰とは、目では勿論ですが、自分の全存在で、主を受けとめ、感じ取り、それを、口では勿論ですが、自分の存在そのもので伝えることです。感動が、福音を宣べ伝えるのです。主を受け止め、心が震えた者、主の心に同調した者が、その心が、福音を聞いた者の心を同調させ、心を震わせます。それが福音宣教です。

 番兵たちは恐怖を感じました。これは、感動の一歩手前だったかも知れません。

 しかし、福音となるような感動には至っていません。


▼何故、これだけの出来事を見ていながら、彼らは、神さまの存在を感じ取ることが出来なかったのでしょうか。

 彼らは、5節以下の天使のメッセージを聞いていません。

 『天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。

  十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

  6:あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ』

 事実を目撃したかどうかが、決定的なことではありません。メッセージを聞かなくてはならないのです。メッセージを聞いて、実際に見て、初めて心が動きます。感動します。


▼番兵らは、7節の天使の言葉も聞いていません。

 [それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。

 『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。

  そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」]

 婦人たちは、この言葉を、この使命を与えられ、福音の使者となりましたが、番兵たちは、同じ出来事を見たとしても、メッセンジャーとして派遣されていません。派遣されていない者が、メッセージを伝えることは出来ないのです。


▼さて、番兵たちの情報を、祭司長たちも長老たちも、確かに聞きました。

 『この出来事をすべて』です。何度も言いますが、正確な情報です。それは、確かに、祭司長たち、長老たちの心を揺り動かしたのです。但し、感動ではありません。悪意です。悪意、憎悪にうち震えました。

 情報は、それが正しい情報であっても、人を共感させ、感動させるとは限りません。むしろ、嫌悪感や憎悪を引き起こすことの方が多いかも知れません。

 そして、この正しい筈の情報から生まれたのは、13〜14節の捏造された情報、嘘です。


▼12節。

 『そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて』    

 神さまのメッセージを聞いていない者は、聞こうとしない者は、自分たちで相談・協議するのです。

 番兵たちの情報を、これは、確かにメッセージとは言えない、唯の情報かも知れませんが、天使が現れたという不思議を、何と覆い隠し、歪めてしまいました。天の情報を、人間が相談して歪めてしまったのです。しかも、そのためには、お金を使いました。

 相談すること、人間が知恵を出し合うことは、原則悪いことではないかも知れません。しかし、何もかもを相談して、人間が知恵を出し合って決めることは出来ません。

 そうしてはならないこともあります。


▼13〜14節をご覧下さい。

 [「『弟子たちが夜中にやって来て、

  我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。

 14:もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、

   あなたがたには心配をかけないようにしよう。」]

 これは、悪巧みです。『うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけない』とか、巧いことを言っています。

 しかし、兵士たちへの配慮といえば配慮です。そうでなければ、まんまと死体を盗まれたことになって、兵士たちは咎められるでしょう。


▼祭司長、長老たちは、ここまで気が回るし、ある意味では、兵士たちへの優しい気配りと言えるかも知れません。

 もしかしたら、兵士たちが無実の怠慢で咎められないように配慮したのは、祭司長、長老たちなりの正義感とさえ言えるかも知れません。

 しかし、そもそもが嘘です。そして、結局、お金で事を処理しようとしています。

 お金で、事実をも動かすことが出来ると考えているのです。

 ユダにお金を渡したのも、祭司長です。同じ人物かどうかまでは書いてありませんが、書いていないということは、同一視して良いということでしょう。

 お金で、人の心をも動かすことが出来ると考えている人は、お金で、事実をも動かすことが出来ると考えているのです。

 お金で人の心を動かすのは、お金で心を動かされるよりも、もっと悪いことです。


▼さて、祭司長、長老たちは、何故こんなことをしたのかという問題です。

 マタイだけでも、いろいろと上げられていますが、21章23節が、一番決定的なことではないかと思います。

 『イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが

   近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。

   だれがその権威を与えたのか。」』

 詳しくお話しする暇はありません。省略せざるを得ませんが、結局、このことなのです。

 イエスさまの教えによって、彼らの権威に傷が付くのです。

 

▼マタイ福音書6章、主の山上の説教に描かれる偽善者に重なると思います。

 同じく、23章に重なると考えます。5〜7節。

 『そのすることは、すべて人に見せるためである。

   聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。

 6:宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、

 7:また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。』 

 

▼彼らだって、何かしら信仰的な思いがあって、聖職者に、或いは聖書の専門家になったのだと思います。それとも、家業を継いだだけでしょうか。

 私たちだって同じことです。何時の間にか、魂の救い、永遠の命、といった必死のことを忘れて、形式的なこと、些末なことに気持ちを奪われるならば、何時の間にか、祭司長、長老たちのようになってしまいます。

 つまり、復活を否定する者になってしまいます。

 復活などどうでも良い、もっと大事なことがある、もっと緊急のことがあると考えるようになってしまいます。

 或いは逆でしょうか。復活などどうでも良い、つまり、信仰に核心部分がないから、形式的なこと、些末なことに気持ちを奪われるのです。


▼さて今日この箇所を読むのは、使徒信条の学びのためです。16節以下がより重要ですが、時間をかけなくとも大事なことだけ読みたいと思います。

 17節。『そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた』

 『疑う者もいた』のは、11人の弟子たちの中にです。大勢の中にはそういう人もいるという話ではありません。選ばれて、約束に山に登った11人の弟子たちの中に『疑う者もいた』のです。そんなものが11人の中にいてはならないように思いしますが、しかし、いました。


▼この『疑う者もいた』11人の弟子たちに、イエスさまは、仰いました。

 『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。

   彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』

 教会はそのような所です。駄目な者も、疑う者も、人に躓きを与える者も存在します。11人の弟子たちとは、ローマカトリック的に見たら聖人でしょう。私たちはそんな風に考えませんが、それでも、今日の牧師に当たるでしょうか。その中には『疑う者もいた』かも知れません。 しかし、彼ら全体に、つまり一人一人にではなく教会にイエスさまは、『すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』と、命令されました。大伝道命令と呼ばれます。

 その根拠は、『わたしは天ば地の一切の権能を授かっている』であり、

『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』です。

 これが教会の権威の唯一の根拠です。教会の権威は、ローマカトリックの主張のように、法王個人にあるのではありません。当然です。そして牧師や役員にあるのでもありません。

 ただ、このイエスさまの大伝道命令にのみ存在します。