日本基督教団 玉川平安教会

■2020年12月13日 

■説教題 「救いがこの家を訪れた
■聖書  ルカによる福音書 19章1〜10節 




○ 私たちは、聖書特に福音書を読みながら、心の中に常にこのような問いを持っています。「何故この人は救われたのか」、逆に「何故この人は救われないのか」。

 「救われた人」の言動の中から、何かしら良い所を探し出して、「これが救われた理由だったのだ」と納得したいし、「これが救われなかった理由なのだ」と納得したいのです。

 明確な「救われる理由」「救われない理由」を見出すことが出来ないと、私たちの心は落ち着きません。

         

○「何故この人は救われたのか」、逆に「何故この人は救われないのか」、私たちは、自分の救いというものに熱心であればこそ、この問いを心に抱きます。しかし、これはややもすれば、自分の価値観で、「救われる」「救われない」という基準、物差しを設けることにつながってしまいます。

 聖書の登場人物の、「この人が救われるのはおかしい」とか、「救われないのがおかしい」とか、私たちは割と簡単に口にします。イスカリオテのユダなどについては、その最たるもので、「イスカリオテのユダが救われなければ、私は救われない」と言った人がいます。多分この人は救われないでしょう。ユダが救われないからではなくて、他人の救いを条件に上げて、自分の救いについて、神と交渉しているからです。その傲慢さに気が付いていないからです。


○ 確かに、アブラハムは、他人の救いについて、神さまと交渉しました。ソドムとゴモラが滅ぼされようとしている場面です。アブラハムは、この町に50人の正しいものがいても、神さまはこの町を滅ぼされるのですかと問い、まるで値切るようにして、その人数を下げ、40人でも、30人なら、20人ならと、交渉し続けます。

 『わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します』『わが主よ、どうかお怒りにならぬよう』アブラハムのように我が身の分をわきまえた上で、また、このような真摯さ必死さを持って、神と交渉するのならよろしいでしょう。畏れ多い仕業であることを自覚して、尚訊ねずにはいられないのならよろしいでしょう。しかし、不用意に神の裁きに口を出すようなことは、してはなりません。

 因みに、この話は、創世記18章の後半ですが、22章には、かのアブラハムが神の命令によって我が子イサクを捧げるあの有名な場面になります。この二つの物語は、切り離して読んではなりません。神に対するアブラハムの絶対の信頼、神が正しいことをなさるという絶対の信頼が、創世記18章によって形成され、その延長上に我が子イサクを捧げる物語があります。


○  元に戻ります。今日のザアカイの物語こそ、彼が救われた理由について、いろいろと考えを巡らす箇所です。実際そのような説明が加えられている本もあります。多くの人は、いちじく桑の木に登ってでもイエスさまのお姿を見ようとしたことに、救いの根拠を見つけようとします。そうかも知れません。

 しかし、そうだとしたら、好奇心の強い人間、思い立ったら我慢が出来ない軽率な人間が、一番救いに近いことになってしまいます。

 この行為を象徴的に理解して、主に近づいたと評価する人もいます。桑の木一本分だけ、イエスさまに近づいたと考えるのです。が、どうでしょうか。そうしましたならば、裏切りの接吻をするために主を抱擁したユダは、大変信仰的なことをしたのでしょうか。イエスさまの身近に近づいたどころか、包容し接吻したのですから。 … そんなはずはありません。

 逆に、復活の主への畏れから海に飛び込んで離れてしまったペトロは、不信仰なことをしたのでしょうか。 … そんなはずはありません。

 最初に申し上げたように、「何故この人は救われたのか」、逆に「何故この人は救われないのか」、この問いが見当違いなのです。

 少なくとも、今日のこの箇所は、ザアカイは何故救われたのか、私たちもザアカイのここを見習えば救われるという類の話ではありません。


○ では何が主題なのか。ここでは、二つの主題が重ねられています。ズバリと答えから申しましょう。

 一つは、罪ある者、罪の故に疎外されていた者が、イエスさまに呼び出されたということです。罪人にも拘わらず、疎外されていたにも拘わらずと言い換えてもよろしいでしょう。もっと大胆に言えば、人間の側に良いものが有るとかないとかと無関係に、唯、主の御心によって、呼び出されたということです。

 今一つの主題はこうです。

 主は無条件にザアカイを呼び出された。これに対して、ザアカイが感謝感激し、自分の財産を貧しい者に施したということです。この順番が大事です。自分の財産を貧しい者に施したザアカイに対して、主の祝福が与えられたのではありません。主の救いが与えられたのではありません。全く予期しない恵みに与ったことによって、心が揺り動かされたザアカイが、施しという具体的な感謝の行動を思い付いたのです。


○  以上のことを前提として、順に読んでまいります。

 1節。

 『イエスはエリコに入り、町を通っておられた』

 エリコの町は、交通の要所で、ローマ時代には税関所がありました。徴税人はローマから関税徴収を請け負う委託業者で、請負の「さやかせぎ」を自由に出来たそうです。従って彼らは住民からだまし取るのが当たり前でした。そこで、法廷で証人に立つ資格もない詐欺師とみなされていました。ザアカイはその頭領です。

 ザアカイだけが、例外的に清廉潔白だったということはないでしょう。ザアカイは、最も救いから遠い人物・不信仰な人物の代表として、ここに登場しているのであって、ザアカイから何か良いものを発見しようという考え方は、無理かと思います。


○  当然、3節の背が低かったことを、謙遜の暗喩として読むことは間違っていますし、4節の木に登ったことも、その行為自体を美化するのは、甚だしい見当違いです。勿論、ザアカイの何とも滑稽な姿を、その人柄に反映させて、彼がユーモラスな人、好人物だったと解釈することも無意味です。彼がイエスを見ようとするのは好奇心からに過ぎないかも知れません。

 この描写から、私たちが読み取るべきは、滑稽さではなくて、全くその逆、当時の取税人が如何に、人々に忌み嫌われる存在であったか、人々の信仰的日常から疎外されていたかという一点です。


○  5節。

 『イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。

   「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」』

 そのようなザアカイに主が声を掛けられたから、人々が驚き怪しむのであり、また、特別に福音書に記される程の出来事なのです。

 イエスさま自らがザアカイを招く言葉『今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』は、9節の『今日、救いがこの家を訪れた』に対応しています。『ぜひ泊まりたい』は、ギリシア語では、むしろ、『泊まらねはならない』です。この表現は、この出来事が偶発的に起こったのではなくて、神による救いの計画の内に置かれていることを表しています。

 

○ 6節。

 『ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた』

 何故ザアカイが喜んで、イエスさまを迎え入れたのか、 … 分かりません。

 ここでも、何故と問うことは無意味でしょう。第1に、主の直接の招きの言葉に逆らいうる者などいません。ですから、『喜んで、イエスさまを迎え入れた』ことが、ザアカイの信仰だというような解釈も成り立ちません。

 ここでどうしても何故と問わなくてはならない人は、主の招きを感じたことがない人だと思います。特にマルコ福音書に顕著ですが、主の直接の招きの言葉に逆らいうる者などいません。『私に従って来なさい』この言葉で充分なのです。ここで何故と言う人は、主に従うことの出来ない人です。

 私の側には救いに与る資格のようなものは何もないけれど、イエスさまの側にはそれがある。イエスさまは私を見つけ出し救って下さった。『私に従って来なさい』と声を掛けて下さった。これが私たちの信仰の姿勢です。

 自分の側に資格がある、私は自分で決断してイエスさまを選び取り、敢然として従って行ったと言う人もいるかも知れません。大変毅然として格好良いんですが、しかし、この場合、何時何時(いつなんどき)この人の考え方次第で、変わってしまうかも知れません。

 結婚の時に、就職の時に、このような例は、決して少なくありません。人一倍熱心に見えた人が、案外にあっさりと教会を離れてしまう場合があります。それは、このような人は、イエスさまの招き言葉を一番大事にしているのではなくて、自分の感情を自分の決断を大事にしているからです。人の心は、語源がコロコロです。変わってしまいます。


○ さて、にも拘わらず、ザアカイが喜んでイエスさまを迎え入れたことも事実です。人々から軽蔑されて生きて来た人間の、正直な飾らない喜びです。

 7節。

 『これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」』

 泥棒と同じように見做される徴税人の、しかもその頭領の家に泊まるなどは、徴税人に始終だまされている住民たちにとっては、もっての外のことです。このようにイエスさまが異常な行為をなされたことが、強調されているのであり、救われる筈のない者が救われたことが描かれているのであり、救われる筈のない者が救われた喜びが描かれているのです。


○ もしどうしてもザアカイと自分とを重ねて読まないと気が済まないと言うのならば、ここでこそ、重ねて読むべきです。この私を救った下さった。何の根拠もなく、まるで偶然のような私の前にお出かけ下さり、そして私の名前を呼んで下さった。なんとうれしいことだろう。なんと素晴らしいことだろう。


○  8節。

 『しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。

  「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。

  また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」』

 ザアカイが何故こんなことを言い出したのか、 … やっぱり、分かりません。既に申しましたように、異常な出来事が起こっているのであり、ザアカイの言動もその一部なのですから、妙に理屈付けることは出来ません。合理的に解釈することは無意味だろうと思います。

  ただ、ここに上げられている数字には、意味が有ります。ファリサイ派が献身する時には、財産の4分の一を捧げます。また、翌年からは収入の5分の一を支払うそうです。また、徴税人は、だまし取った金額と更にその5分の一を加えて弁償する義務がありました。ザアカイは、だまし取った金額の4倍を払うと言っています。つまり、ここでは以前の不正な蓄財から縁を切ると宣言しているのです。ザアカイなりの仕方で、神に選ばれたことを感謝しているのです。エリート意識の強いファリサイ派以上に。


○ 9節。

 『イエスは言われた。「今日、救いいこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。』

 『今日、救いがこの家を訪れた』という言葉は、それが旧約の神の計画通りであることを暗示しています。更に付け加えて『この人もアブラハムの子なのだから』と言います。アブラハムの子というのは、ユダヤ人だということよりも、神の救いの計画に基づくアブラハムの子という意味があります。

 使徒行伝3章には、【美しの門】の前で乞食をしていた男が、ペトロとヨハネによって癒され、躍り上がって喜び、そしてペトロとヨハネと共に、神さまを讃美するために宮に入る話が出てまいります。人々は、このことに、つまり、奇跡的に癒されたことと、乞食が讃美・礼拝していることに驚きます。この驚きの理由も、ザアカイの場合と殆ど同じです。乞食も、そして取税人ザアカイも、アブラハムの子であったのに、そのようには認識されていなかったと言うことなのです。

 私たちも、ザアカイや乞食を造っていないかということを、ここで真剣に反省して見なくてはなりません。


○ 最後に。この箇所には、二つの主題が重ねられていると申しました。これを私たちに当てはめれば、このようになります。私にはその資格が有るとかないとかではなくて、とにかくに、私は神さまに呼び出された。先ずこのことです。

 そして今一つは、これにどう答えるかということです。召し出されたという事実そのものを喜んで、感謝し、主に答えることあります。どのようにして、主をお迎えするかということです。

                                                 

○  礼拝に招かれる喜び、私の心にイエスさまをお迎えする喜び、主が我が家においで下さる喜び、これをどのように言い表すか、それが信仰であり、それが礼拝なのです。