◆今年も、召天者記念礼拝の時を迎えました。今年が教会創立88周年ですから、召天者記念礼拝も、そ れに近い回数を重ねていることになります。間もなく、90周年を迎え、やがては100周年となりますから、創立 時の教会を様子を調べたいと考えています。 90年、100年の記録をまとめたいとも願っています。 幸い、玉川平安教会には、古い週報やらが、保存されていますので、こつこつと作業をすれば、歴史をまとめ ることは可能かと思います。 ◆困難なのは、そしてより肝心なのは、この教会で信仰生活を送った人の記録です。88年経ちました、創立 当時のことを知る人は少なくなっています。困難ですが、信仰生活した人々の記録を、334人分、出来るだけ 再現し、残したいものです。 今日、礼拝に出席された方々には、是非、ご両親や祖父母、曾祖父曾祖母に当たる方の記録や想い出 を、教会に寄せていただければ喜びます。 礼拝の後の愛餐会は時間が限られますので、今日一日では、絶対に不可能です。来年のこの機会まで に、写真やら、想い出の文章なりを寄せていただければ幸いです。 ◆毎年、召天者記念礼拝にふさわしいと思われる聖書箇所を選びますが、今年は、普段の礼拝で連続して 読んで来たコロサイ書を、そのまま読むことにしました。しかも、コロサイ書末尾の部分です。 勿論、召天者記念礼拝にふさわしいと思うからです。 ◆10節から、比較的長い箇所を読みました。 読んでもあまり面白くないかも知れません。やたらと固有名詞が出て来るだけです。しかも、ギリシャ語ですか ら、馴染みのある響きではありません。 14人分の名前と地名が載っています。毎週礼拝に出ている人でも、知っている名前は、半分ないかも知れ ません。 「この人はどういう人物ですか」と聞かれて、直ちに応えられるのは、牧師の私でも、4人だけです。後の人 は、辞書を引かなくては、正しくは答えられません。 ◆しかし、羅列とも思えるこの人名・地名に大きな意味があります。「この人はこういう人物です」という意味で の重要性ではありません。 名前が上げられていること自体に大きな意味があります。聖書・コロサイ書に名前が残されていることに、そも そも大きな意味があります。旧約聖書には、民族の一覧表もありますし、名前が残されている人は大勢います が、新約聖書では限られています。 私はちっとも知りませんが、新約聖書に信仰者として名前が上げられている人は、その多くに物語や伝説が 加えられ、中には聖人に数えられる人もいます。 ◆今日、説教の後で、例年のように、召天者の名前が読み上げられます。334名です。相当に時間が要り ます。何故読み上げるのでしょうか。遺族の方にとっては、意味のある名前です。名前が読まれた瞬間に、いろ んな想い出がよぎるかも知れません しかし、その他の人にとっては、馴染みのない名前であり、新しい教会員からすれば、殆どが未知の人、無縁 の人です。 それでも読み上げられる理由は、これが、神の国へと送り出された人の名簿だからです。そのままイコール、 天国の住民名簿であれば良いと思いますが、分かりません。 聖書の中に、『信じる者は誰でも救われる』という言葉もありますが、『誰が救われる、誰が救われないと言っ てはならない』という言葉もあります。 確実なことは、この玉川平安教会と言うゲートから、神の国へと送り出されたことです。 ◆地名・人名の次に目立つのは、『よろしく』と言う言葉です。5回出て来ます。 その内3回は、『あなたがたによろしく』です。 『よろしく』、一番簡単な挨拶の言葉です。一番短い挨拶の言葉です。簡単だけれども、短いけれども、とて も大事な言葉です。 『よろしく』、日本語でもギリシャ語でも、殆ど意味の違いはありません。この場合は、仲介であり、執り成しで す。 10節。 … バルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。… バルナバは、使徒言行録に登場する、キリスト教史上の重要人物です。パウロの先達と言ってもよろしいでし ょう。マルコは、マルコ福音書の著者です。 … このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、 あなたがたは受けているはずです。… この言葉の背景・事情については分かりません。思わせぶりに聞こえますが、特に調べる必要もないでしょう。 肝心なことは、パウロが、コロサイの教会員にマルコを紹介しているという事実です。 そのマルコは、コロサイ教 会員に、パウロの活動・近況を知らせるために、派遣されようとしています。『あなたがたによろしく』とは、そのた めの執り成しです。 ◆11節のユストについても、12節のエバフラスについても、辞書を見ますと、いろんなことが書いてありますが、 ここで披露する必要はありません。 繰り返し申しますが、ここに出て来る名前の重要性よりも、もっと重要なのは、このようにして、伝道者を教会 に紹介・推薦していること、その事実です。 … 神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。… これが推薦書の添え書きです。 この礼拝で名前を読み上げる方々についても、『神の国のために共に働く者』として、神の国に紹介状を送っ たのです。教会の多くの人にとって『慰めとなった人』として、神の国に推薦状を送ったのです。 ◆12節の後半だけ読みます。 … 彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、 いつもあなたがたのために熱心に祈っています。… この礼拝で名前を読み上げる方々は、『いつもあなたがたのために熱心に祈って』いる者として、名前を上げ られています。 こんな言い方をすると仏教的、民間信仰的に聞こえるかも知れませんが、正直な思いです。334名の方々 が、「私たちの教会を覚えて、今も祈って欲しい」からこそ、私たちは、この334名の方々の名前を上げて、神 さまに祈ります。 私たちの信仰は、先祖崇拝や使者崇拝ではありませんから、亡くなった人に、願い祈るのではありません。神 さまに祈ります。しかし、これらの人のことを想い、また、想って貰うために、神さまに祈ります。 ◆13節では、12節で『いつもあなたがたのために熱心に祈っています。』と紹介されている同じエバフラスが、 … 彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、 非常に労苦しています。… とも言われています。 『熱心に祈っています』とは、当時の伝道者にとって、則ち『非常に労苦しています』ということでもあります。た だ、儀礼的に、表面的に祈っているのではありません。祈ることと苦労することとは、殆ど重なるのです。 ◆14・15節にも、『よろしく』とあり、矢張り執り成しです。16節だけ読みます。 … この手紙があなたがたのところで読まれたら、 ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。 また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。… ここに記されているようにして、初代の教会は、回覧される文書を一緒に読んでいました。それが則ち礼拝だ ったのです。 その同じ文書手紙を、今日、私たちも読んでいます。そして、これが礼拝です。 神さまの名前、本来は秘密である神さまの名前が、モーセに告げられたところから、ユダヤ人たちの歴史が始 まりました。この出エジプト記には、無数の人の名前が記されています。一族に属する者の名前であり、共に旅 する者の名簿です。 ◆私たちが、名簿、名前の一覧表に目をとめるのはどんな時でしょうか。新しいクラスの生徒名簿が、教室の 前に張り出される時でしょうか。 より緊張するのは、入学試験の合格者名を見る時でしょう。今は、HPで発表されるでしょうが、合格者掲示 板に張り出された番号こそ、もっとも人の関心を呼ぶ名簿です。日本基督教団は早稲田大学と隣接していま すので、そのような光景を、10回以上も目にしました。 召天者記念礼拝で読む名簿が、神の国の合格者名簿であれば良いと願います。しかし、 既に申しましたように、『誰が救われる、誰が救われないと言ってはならない』という言葉もあります。牧師が判 定することは出来ません。推薦するだけです。 ◆中学・高校は勿論、大学の推薦入試にも、内申書があります。どの教会にも、幼小中高大学の先生がい ます。それらの方々からお話しを聞きます。内申書の記入には、心を痛めるそうです。勿論、合格に結び付くよ うに書きたいけれども、まるっきり嘘は書けません。他の生徒との比較もあります。客観的評価が求められま す。そもそも通信簿がそうです。辛いと仰る人が少なくありません。私も9年間、看護学校で生徒に成績を付 けた経験があります。とても嫌なことでした。内申書での評価は、もっと嫌だと想像します。 ◆17節を読みます。 … アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、 それをよく果たすように」と伝えてください。… アルキポさんがどんな人かは省略してよろしいでしょう。ここでも、推薦・紹介の言葉が大事です。 これは伝言です。何故、直接にアルキポさんに当てて言わないのでしょう。手紙を託すことが出来るでしょう。 直接、アルキポ当てに手紙を出すことも出来ます。それなのに、わざわざ人を介して言います。しかも、その内 容は、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』です。 これは励ましでしょうか。むしろ戒めに聞こえます。それを人に託して、伝えています。伝言を頼まれた人は、こ の言葉を聞いています。今日ならば、牧師の秘守義務に抵触しそうです。 ◆むしろ、それこそが目的ではないでしょうか。アルキポさんに言いたいけれども、それを伝える者にも、言いたい のではないでしょうか。 そもそも16〜17節を読んでも、この伝言者が誰なのかはっきりしません。 16節にある『この手紙があなたがたのところで読まれたら』から推して、コロサイの教会員です。教会員の誰か は特定されていません。教会員全員かも知れません。 そうして読みますと、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』という内容 も、改めて考え直さなくてはなりません。 これは、アルキポへ宛てた励まし、戒めかも知れませんが、それ以上に、コロサイ教会に焦点を当てたもので はないでしょうか。 アルキポさんは、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果た』さなくてはなりません。 多分果たしています。アルキポさんは、そのような使命を与えられて働いている人なのだと、むしろ、コロサイ教会 員に対して、戒めているのではないでしょうか。つまり、これも紹介状であり、推薦状です。 ◆18節を読みます。 … わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。 わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。 恵みがあなたがたと共にあるように。… パウロは、今、『捕らわれの身』です。そんな困難な中で、コロサイ教会員を心配し、彼らを助けることが出来 る伝道者を推薦・派遣しています。 『自分の手で挨拶を記します』と書いています。直筆です。わざわざこのように記すのは、普段は他の弟子に 書いて貰っているからです。口述筆記です。パウロは目が良くなかった可能性が強いと思います。パウロ自身 が、病を持っています。多くの困難を抱えています。その中で、教会を思いやり、一人ひとりに気を配っているの です。 ◆それが教会という所です。 名簿に載っている全ての人を思いやり、その一人ひとりのために祈ります。そして、教会のために、祈って貰い たいと願っています。それが教会という所です。 だから、毎年、このように、召天者記念礼拝を守ります。合同慰霊祭ではありません。神の国へと旅する者 の群れが、先に召された者、信仰の先輩たちを思い出し、それに続く覚悟を持つのが、召天者記念礼拝で す。 |