日本基督教団 玉川平安教会

■2024年11月3日 

■説教題 「あなたがたによろしくと」

■聖   書  コロサイの信徒への手紙 4章10〜18節 


◆今年も、召天者記念礼拝の時を迎えました。今年が教会創立88周年ですから、召天者記念礼拝も、そ
れに近い回数を重ねていることになります。間もなく、90周年を迎え、やがては100周年となりますから、創立
時の教会を様子を調べたいと考えています。

 90年、100年の記録をまとめたいとも願っています。

 幸い、玉川平安教会には、古い週報やらが、保存されていますので、こつこつと作業をすれば、歴史をまとめ
ることは可能かと思います。


◆困難なのは、そしてより肝心なのは、この教会で信仰生活を送った人の記録です。88年経ちました、創立
当時のことを知る人は少なくなっています。困難ですが、信仰生活した人々の記録を、334人分、出来るだけ
再現し、残したいものです。

 今日、礼拝に出席された方々には、是非、ご両親や祖父母、曾祖父曾祖母に当たる方の記録や想い出
を、教会に寄せていただければ喜びます。

 礼拝の後の愛餐会は時間が限られますので、今日一日では、絶対に不可能です。来年のこの機会まで
に、写真やら、想い出の文章なりを寄せていただければ幸いです。


◆毎年、召天者記念礼拝にふさわしいと思われる聖書箇所を選びますが、今年は、普段の礼拝で連続して
読んで来たコロサイ書を、そのまま読むことにしました。しかも、コロサイ書末尾の部分です。

 勿論、召天者記念礼拝にふさわしいと思うからです。


◆10節から、比較的長い箇所を読みました。

 読んでもあまり面白くないかも知れません。やたらと固有名詞が出て来るだけです。しかも、ギリシャ語ですか
ら、馴染みのある響きではありません。

 14人分の名前と地名が載っています。毎週礼拝に出ている人でも、知っている名前は、半分ないかも知れ
ません。

 「この人はどういう人物ですか」と聞かれて、直ちに応えられるのは、牧師の私でも、4人だけです。後の人
は、辞書を引かなくては、正しくは答えられません。


◆しかし、羅列とも思えるこの人名・地名に大きな意味があります。「この人はこういう人物です」という意味で
の重要性ではありません。

 名前が上げられていること自体に大きな意味があります。聖書・コロサイ書に名前が残されていることに、そも
そも大きな意味があります。旧約聖書には、民族の一覧表もありますし、名前が残されている人は大勢います
が、新約聖書では限られています。

 私はちっとも知りませんが、新約聖書に信仰者として名前が上げられている人は、その多くに物語や伝説が
加えられ、中には聖人に数えられる人もいます。


◆今日、説教の後で、例年のように、召天者の名前が読み上げられます。334名です。相当に時間が要り
ます。何故読み上げるのでしょうか。遺族の方にとっては、意味のある名前です。名前が読まれた瞬間に、いろ
んな想い出がよぎるかも知れません

 しかし、その他の人にとっては、馴染みのない名前であり、新しい教会員からすれば、殆どが未知の人、無縁
の人です。

 それでも読み上げられる理由は、これが、神の国へと送り出された人の名簿だからです。そのままイコール、
天国の住民名簿であれば良いと思いますが、分かりません。

 聖書の中に、『信じる者は誰でも救われる』という言葉もありますが、『誰が救われる、誰が救われないと言っ
てはならない』という言葉もあります。

 確実なことは、この玉川平安教会と言うゲートから、神の国へと送り出されたことです。 

◆地名・人名の次に目立つのは、『よろしく』と言う言葉です。5回出て来ます。

 その内3回は、『あなたがたによろしく』です。

 『よろしく』、一番簡単な挨拶の言葉です。一番短い挨拶の言葉です。簡単だけれども、短いけれども、とて
も大事な言葉です。

 『よろしく』、日本語でもギリシャ語でも、殆ど意味の違いはありません。この場合は、仲介であり、執り成しで
す。

 10節。

  … バルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。…

 バルナバは、使徒言行録に登場する、キリスト教史上の重要人物です。パウロの先達と言ってもよろしいでし
ょう。マルコは、マルコ福音書の著者です。

 … このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、

   あなたがたは受けているはずです。…

 この言葉の背景・事情については分かりません。思わせぶりに聞こえますが、特に調べる必要もないでしょう。

 肝心なことは、パウロが、コロサイの教会員にマルコを紹介しているという事実です。 そのマルコは、コロサイ教
会員に、パウロの活動・近況を知らせるために、派遣されようとしています。『あなたがたによろしく』とは、そのた
めの執り成しです。


◆11節のユストについても、12節のエバフラスについても、辞書を見ますと、いろんなことが書いてありますが、
ここで披露する必要はありません。

 繰り返し申しますが、ここに出て来る名前の重要性よりも、もっと重要なのは、このようにして、伝道者を教会
に紹介・推薦していること、その事実です。

 … 神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。…

 これが推薦書の添え書きです。

 この礼拝で名前を読み上げる方々についても、『神の国のために共に働く者』として、神の国に紹介状を送っ
たのです。教会の多くの人にとって『慰めとなった人』として、神の国に推薦状を送ったのです。


◆12節の後半だけ読みます。

 … 彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、

  いつもあなたがたのために熱心に祈っています。…

 この礼拝で名前を読み上げる方々は、『いつもあなたがたのために熱心に祈って』いる者として、名前を上げ
られています。

 こんな言い方をすると仏教的、民間信仰的に聞こえるかも知れませんが、正直な思いです。334名の方々
が、「私たちの教会を覚えて、今も祈って欲しい」からこそ、私たちは、この334名の方々の名前を上げて、神
さまに祈ります。

 私たちの信仰は、先祖崇拝や使者崇拝ではありませんから、亡くなった人に、願い祈るのではありません。神
さまに祈ります。しかし、これらの人のことを想い、また、想って貰うために、神さまに祈ります。


◆13節では、12節で『いつもあなたがたのために熱心に祈っています。』と紹介されている同じエバフラスが、

 … 彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、

  非常に労苦しています。…

 とも言われています。

 『熱心に祈っています』とは、当時の伝道者にとって、則ち『非常に労苦しています』ということでもあります。た
だ、儀礼的に、表面的に祈っているのではありません。祈ることと苦労することとは、殆ど重なるのです。


◆14・15節にも、『よろしく』とあり、矢張り執り成しです。16節だけ読みます。

 … この手紙があなたがたのところで読まれたら、

  ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。

  また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。…

 ここに記されているようにして、初代の教会は、回覧される文書を一緒に読んでいました。それが則ち礼拝だ
ったのです。

 その同じ文書手紙を、今日、私たちも読んでいます。そして、これが礼拝です。

 神さまの名前、本来は秘密である神さまの名前が、モーセに告げられたところから、ユダヤ人たちの歴史が始
まりました。この出エジプト記には、無数の人の名前が記されています。一族に属する者の名前であり、共に旅
する者の名簿です。


◆私たちが、名簿、名前の一覧表に目をとめるのはどんな時でしょうか。新しいクラスの生徒名簿が、教室の
前に張り出される時でしょうか。

 より緊張するのは、入学試験の合格者名を見る時でしょう。今は、HPで発表されるでしょうが、合格者掲示
板に張り出された番号こそ、もっとも人の関心を呼ぶ名簿です。日本基督教団は早稲田大学と隣接していま
すので、そのような光景を、10回以上も目にしました。

 召天者記念礼拝で読む名簿が、神の国の合格者名簿であれば良いと願います。しかし、

既に申しましたように、『誰が救われる、誰が救われないと言ってはならない』という言葉もあります。牧師が判
定することは出来ません。推薦するだけです。


◆中学・高校は勿論、大学の推薦入試にも、内申書があります。どの教会にも、幼小中高大学の先生がい
ます。それらの方々からお話しを聞きます。内申書の記入には、心を痛めるそうです。勿論、合格に結び付くよ
うに書きたいけれども、まるっきり嘘は書けません。他の生徒との比較もあります。客観的評価が求められま
す。そもそも通信簿がそうです。辛いと仰る人が少なくありません。私も9年間、看護学校で生徒に成績を付
けた経験があります。とても嫌なことでした。内申書での評価は、もっと嫌だと想像します。


◆17節を読みます。

 … アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、

   それをよく果たすように」と伝えてください。…

 アルキポさんがどんな人かは省略してよろしいでしょう。ここでも、推薦・紹介の言葉が大事です。

 これは伝言です。何故、直接にアルキポさんに当てて言わないのでしょう。手紙を託すことが出来るでしょう。
直接、アルキポ当てに手紙を出すことも出来ます。それなのに、わざわざ人を介して言います。しかも、その内
容は、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』です。

 これは励ましでしょうか。むしろ戒めに聞こえます。それを人に託して、伝えています。伝言を頼まれた人は、こ
の言葉を聞いています。今日ならば、牧師の秘守義務に抵触しそうです。


◆むしろ、それこそが目的ではないでしょうか。アルキポさんに言いたいけれども、それを伝える者にも、言いたい
のではないでしょうか。

 そもそも16〜17節を読んでも、この伝言者が誰なのかはっきりしません。

 16節にある『この手紙があなたがたのところで読まれたら』から推して、コロサイの教会員です。教会員の誰か
は特定されていません。教会員全員かも知れません。

 そうして読みますと、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』という内容
も、改めて考え直さなくてはなりません。

 これは、アルキポへ宛てた励まし、戒めかも知れませんが、それ以上に、コロサイ教会に焦点を当てたもので
はないでしょうか。

 アルキポさんは、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果た』さなくてはなりません。
多分果たしています。アルキポさんは、そのような使命を与えられて働いている人なのだと、むしろ、コロサイ教会
員に対して、戒めているのではないでしょうか。つまり、これも紹介状であり、推薦状です。


◆18節を読みます。

 … わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。

  わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。

  恵みがあなたがたと共にあるように。…

 パウロは、今、『捕らわれの身』です。そんな困難な中で、コロサイ教会員を心配し、彼らを助けることが出来
る伝道者を推薦・派遣しています。

 『自分の手で挨拶を記します』と書いています。直筆です。わざわざこのように記すのは、普段は他の弟子に
書いて貰っているからです。口述筆記です。パウロは目が良くなかった可能性が強いと思います。パウロ自身
が、病を持っています。多くの困難を抱えています。その中で、教会を思いやり、一人ひとりに気を配っているの
です。


◆それが教会という所です。

 名簿に載っている全ての人を思いやり、その一人ひとりのために祈ります。そして、教会のために、祈って貰い
たいと願っています。それが教会という所です。

 だから、毎年、このように、召天者記念礼拝を守ります。合同慰霊祭ではありません。神の国へと旅する者
の群れが、先に召された者、信仰の先輩たちを思い出し、それに続く覚悟を持つのが、召天者記念礼拝で
す。