◆5節を先ずご覧下さい。 『わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、 力と、聖霊と、強い確信とによったからです。 わたしたちがあなたがたのところで、 どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。』 『ただ言葉だけによらず』、普通の日本語表現なら、『言葉だけではなく』でしょうか。 言葉による宣教が否定されているのでも、軽んじられているのでもありません。言葉による宣教こそが、使徒 言行録の時代にあっても、宣教の中心です。 ◆しかし、『言葉だけではなく』、つまり、人間の言葉だけではなく、『力と、聖霊と、強い確信とによ』らなくては なりません。力、聖霊、確信です。 この三つの中で、『力』が、一番解りづらいように思います。『力』とは、具体的にはどのようなことを言うのでし ょうか。 力強い言葉、力強い福音、力強い祈りとか、しばしば言われます。力強い説教は、牧師に対する一番の褒 め言葉だと思われています。本当でしょうか。もしかしたら、内容がないが、声は大きい、迫力だけはあると言う 意味でしかないかも知れません。 『力強い言葉』、『力強い祈り』、教会の中では普通に使っている表現ですが、しかし、では何かと言われる と、よく分かりません。説明出来ません。単に元気の意味で用いられているのではないでしょうか。一テサロニケ 書でも、元気の意味に過ぎないのでしょうか。 元気も大事に違いありませんが、ここでは、もっと大事なことが、『力』と表現されているように思います。 ◆ギリシャ語の辞書を引けば、何でも分かるとは限りませんが、ここでは、辞書によって大きな示唆が与えられ るように思います。 つまり、ここで用いられている『力』と訳されている字は、マルコ福音書5章の、長血の女の癒しの場面で用い られているのと同じ字です。 『25:さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26:多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、 全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27:イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28:「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29:すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30:イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、 群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。』 長い引用になりました。 最後の部分、『自分の内から力が出て行ったことに気づいて』この力と同じ字です。 この力、デュナミスというギリシャ語から、ダイナマイトとかダイナミックとかという言葉が派生しました。力とは、命 そのものを指す程の強い意味合いを持っています。 つまり、今日の箇所でも、『言葉だけに依らず、力と』とありますのは、命を注ぎ込んで、命がけでと言った意 味合いと考えるべきでしょう。 ◆『聖霊』については、言うまでもありません。どんなに優れた人物であっても、聖霊の助けなしに、宣教すること は出来ません。聖霊の働きなくして、人の魂を動かすことは出来ません。聖霊の働きなくして、ただ言葉だけで 説得したら、それは洗脳です。 ◆『強い確信』と記されています。福音宣教の前提に上げられています。 自分自身が確信していないことを、人に伝えることが出来るでしょうか。いろいろと相手の立場を思い計って、 遠慮して、結局は、何も伝えることが出来ません。 『強い確信』は、ややもすれば、独り善がりに終わることが多いかも知れません。 しかし、私たちも、自分が確信することは、家族・子どもがどんなに頑なに拒んでも、無理強いしてでも、それ をさせようとます。特別のことではありません。日常の光景です。 一例として、子どもが、大学やまして高校に行きたくない、もっと他のことをしたいと言った時、「それも一つの考 え方、一つの生き方だな」と認める親は殆どありません。 ◆どんなに子どもに憎まれても、学校に進むことを、勉強を強います。それをしない親は、確信出来ない親は、 子どもにただ無関心、ただ無責任なだけかも知れません。 憎まれても子どもに強いるような、確信を、「勉強しろ、勉強はお前の将来を拓く」、その確信を私たちは持っ ているし、それを行使します。しかし、私たちは信仰についても、同じ確信を持っているのかと問われます。「勉 強しろ、勉強はお前の将来を拓く。信仰のことは、お前の自主性を重んじる。」そういう人が多いと考えます。 聖書・教会に関心を持つ子どもに、「今は勉強の方が大事だ」と諭す人の方が多いでしょうか。 ◆2節に戻ります。 『わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、 あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。』 これは社交辞令ではありません。手紙の決まり文句ではありません。 私も、「今日は良いお天気で」くらいの、軽い調子で、「お祈りしています。」と、手紙に書いたり、口に出した りします。 口先だけではいけませんから、手紙に書いた時には、直ぐにその場で祈るようにしています。パウロは、常に、 本当に祈っていたのです。儀礼ではありません。 この祈りこそが、『ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とに』繋がっていくのです。 ◆お題目のように祈りの言葉を繰り返す、ということとは違います。 思いつきではなく、祈り続けることです。その人のことを思い続けることです。 突然話が飛ぶようで恐縮ですが、私には、大好きな都々逸が、一つあります。と言うか、その他の都々逸は 殆ど知りませんが、これだけは、心惹かれ、しばしば思い起こします。 − 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす − 作者不明だそうです。私は、これを、高神覚昇の『般若心経講義』という本で知りました。未だ、聖書を読む 前のことです。 ◆お祈りは、お題目ではありません。大声で叫べは本当の祈りだとは限りません。正しく神さまと、向かい合うこ とです。 ここでは、『私たちは、祈りの度に』と述べられていることに注目すべきです。 パウロの宣教団は、祈ることで、心を合わせているのです。 議論ではありません。方策を練ることでもありません。祈ることなのです。 日本基督教団も、かつては、教団総会や常議員会という最高議決機関で、ただ、激しい議論に明け暮れ ていましたが、小島誠志議長になってから、冒頭に必ず、御言葉を朗読し祈ることから初め、この頃は、礼拝を 持ってから、議事を始めることになりました。 実は、日本基督教団の議事規則には、祈りをもって会議を始めると明記されています。 ◆私たちの教会だってそうです。人間の集まりですから、何事に関しても意見が同じということはありません。違 いが表面化します。 そういう時に必要なことは、話し合って調整することでも、お互いに譲ることでさえありません。祈ることです。 祈ると言って、相手の意見を変えようと説得するのは、祈りとは言えません。 実に、教会の、力も確信も、祈りから生まれるのです。 ◆3節。 『あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、 わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、 わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。』 『力と、聖霊と、強い確信』があれば、何事もうまく運ぶ、挫折なんてしないとは言っていません。 むしろ、『愛のために労苦し』です。 しかし、『希望を持って忍耐している』のです。それが、信仰生活ということです。 信仰を御利益でしか考えられない人には、この辺りは、全然理解出来ないでしょう。 『力と、聖霊と、強い確信』があれば、何事もうまく運ぶ、挫折しないのではありません。『希望を持って忍耐』 出来るのです。 真剣な祈りとは、神さまを説得することだと勘違いしている人はいないでしょうか。神さまに無理強いしている 人はいないでしょうか。 ◆4節。 『神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、 わたしたちは知っています。』 ここも同様に受け止めなければなりません。 キリスト教の選びという考え方を嫌う人が、教会外には勿論、教会の中にも少なくありません。確かに、神に よる選びを、何か特権と考えているならば、嫌われるのは当然でしょう。また、そういう思い上がりに陥りたくない と言うのも、分かります。 しかし、選びとはそういう思い上がりではありません。むしろ、逆かも知れません。私には何の資格もないのに、 神さまが選んで下さったということなのですから。 私が、努力や才能で勝ち取ったのではなく、ただ、神さまに恵みとして与えられたことなのですから。 ◆6節。 『そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって 御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、』 選ばれた者とは、このような姿をしています。 選ばれた者が、選ばれたが故にこそ、『ひどい苦しみの中』にあります。 しかし、それで滅入っているのではなく、『聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ』ると書いてあります。 聖霊の働きがなければ、福音の言葉を語ることが出来ないように、聖霊の働きがなければ、福音の言葉を 聞き、受け入れることは出来ません。理解力、知力よりも大事なのが、聖霊の助けです。聖霊が働かなけれ ば、耳で聞いても、心に響いては来ません。 ◆『わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり』も、単純なことではありません。 パウロのように偉くなるとか、キリストの神聖に与るとかと言っているのではありません。キリストの十字架に与る とかと言っています。十字架を担う者になることこそが、『わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり』の意味で す。 ◆さて、彼らの信仰を、9節、10節が、具体的に表現しています。9節後半。 『すなわち、 わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、 あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、 生けるまことの神に仕えるようになったか、』 9節だけで、3つのことが言われています。 1.福音宣教に携わる者を、歓迎して受け入れること、つまり、福音の言葉に接するこ とに喜びを見出す こと、 2.偶像から離れること。信仰を得ても、何も生き方が変わらないというのは、むしろ、 不思議なことなので す。信仰を得るとは、新しい知識を一つ得て、古いものはそのま ま大事に保存しておくということではありませ ん。 キリストの十字架に救いを見出すということは、空しい価値に縛られないことです。 3.生けるまことの神に仕えるようになった。 信仰者は、神に仕えるのです。神に仕えることが、本当の意味での自由です。 ◆10節前半。 『更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。』 キリストが再び来られることを、信じて待ち望むのが信仰です。キリストが再び来られないかのような、生き方 をしてはなりません。未来に希望がないかのような生き方をしてはなりません。 10節後半。 『この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、 来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。』 このことが、使徒言行録の時代の、具体的な信仰でした。 復活は期待するけれども、神の怒りは歓迎しない、それでは、信仰は成り立ちません。神さまの恵みは欲し いけれども、神さまのために働くのは御免被る、そんな信仰はありません。 |