日本基督教団 玉川平安教会

■2024年11月10日 説教映像

■説教題 「ひどい苦しみの中でも」

■聖   書 テサロニケの信徒への手紙一 1章1〜10節 


◆5節を先ずご覧下さい。

 『わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、

   力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

   わたしたちがあなたがたのところで、

  どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。』

 『ただ言葉だけによらず』、普通の日本語表現なら、『言葉だけではなく』でしょうか。

 言葉による宣教が否定されているのでも、軽んじられているのでもありません。言葉による宣教こそが、使徒
言行録の時代にあっても、宣教の中心です。


◆しかし、『言葉だけではなく』、つまり、人間の言葉だけではなく、『力と、聖霊と、強い確信とによ』らなくては
なりません。力、聖霊、確信です。

 この三つの中で、『力』が、一番解りづらいように思います。『力』とは、具体的にはどのようなことを言うのでし
ょうか。

 力強い言葉、力強い福音、力強い祈りとか、しばしば言われます。力強い説教は、牧師に対する一番の褒
め言葉だと思われています。本当でしょうか。もしかしたら、内容がないが、声は大きい、迫力だけはあると言う
意味でしかないかも知れません。

 『力強い言葉』、『力強い祈り』、教会の中では普通に使っている表現ですが、しかし、では何かと言われる
と、よく分かりません。説明出来ません。単に元気の意味で用いられているのではないでしょうか。一テサロニケ
書でも、元気の意味に過ぎないのでしょうか。

 元気も大事に違いありませんが、ここでは、もっと大事なことが、『力』と表現されているように思います。


◆ギリシャ語の辞書を引けば、何でも分かるとは限りませんが、ここでは、辞書によって大きな示唆が与えられ
るように思います。

 つまり、ここで用いられている『力』と訳されている字は、マルコ福音書5章の、長血の女の癒しの場面で用い
られているのと同じ字です。

 『25:さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。

  26:多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、

  全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。

  27:イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。

  28:「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

  29:すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。

  30:イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、

  群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。』

 長い引用になりました。

 最後の部分、『自分の内から力が出て行ったことに気づいて』この力と同じ字です。

 この力、デュナミスというギリシャ語から、ダイナマイトとかダイナミックとかという言葉が派生しました。力とは、命
そのものを指す程の強い意味合いを持っています。

 つまり、今日の箇所でも、『言葉だけに依らず、力と』とありますのは、命を注ぎ込んで、命がけでと言った意
味合いと考えるべきでしょう。


◆『聖霊』については、言うまでもありません。どんなに優れた人物であっても、聖霊の助けなしに、宣教すること
は出来ません。聖霊の働きなくして、人の魂を動かすことは出来ません。聖霊の働きなくして、ただ言葉だけで
説得したら、それは洗脳です。

 

◆『強い確信』と記されています。福音宣教の前提に上げられています。

 自分自身が確信していないことを、人に伝えることが出来るでしょうか。いろいろと相手の立場を思い計って、
遠慮して、結局は、何も伝えることが出来ません。

 『強い確信』は、ややもすれば、独り善がりに終わることが多いかも知れません。

 しかし、私たちも、自分が確信することは、家族・子どもがどんなに頑なに拒んでも、無理強いしてでも、それ
をさせようとます。特別のことではありません。日常の光景です。

 一例として、子どもが、大学やまして高校に行きたくない、もっと他のことをしたいと言った時、「それも一つの考
え方、一つの生き方だな」と認める親は殆どありません。


◆どんなに子どもに憎まれても、学校に進むことを、勉強を強います。それをしない親は、確信出来ない親は、
子どもにただ無関心、ただ無責任なだけかも知れません。

 憎まれても子どもに強いるような、確信を、「勉強しろ、勉強はお前の将来を拓く」、その確信を私たちは持っ
ているし、それを行使します。しかし、私たちは信仰についても、同じ確信を持っているのかと問われます。「勉
強しろ、勉強はお前の将来を拓く。信仰のことは、お前の自主性を重んじる。」そういう人が多いと考えます。

 聖書・教会に関心を持つ子どもに、「今は勉強の方が大事だ」と諭す人の方が多いでしょうか。


◆2節に戻ります。

 『わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、

   あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。』

 これは社交辞令ではありません。手紙の決まり文句ではありません。

 私も、「今日は良いお天気で」くらいの、軽い調子で、「お祈りしています。」と、手紙に書いたり、口に出した
りします。

 口先だけではいけませんから、手紙に書いた時には、直ぐにその場で祈るようにしています。パウロは、常に、
本当に祈っていたのです。儀礼ではありません。

 この祈りこそが、『ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とに』繋がっていくのです。


◆お題目のように祈りの言葉を繰り返す、ということとは違います。

 思いつきではなく、祈り続けることです。その人のことを思い続けることです。

 突然話が飛ぶようで恐縮ですが、私には、大好きな都々逸が、一つあります。と言うか、その他の都々逸は
殆ど知りませんが、これだけは、心惹かれ、しばしば思い起こします。

 − 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす −

 作者不明だそうです。私は、これを、高神覚昇の『般若心経講義』という本で知りました。未だ、聖書を読む
前のことです。

 

◆お祈りは、お題目ではありません。大声で叫べは本当の祈りだとは限りません。正しく神さまと、向かい合うこ
とです。

 ここでは、『私たちは、祈りの度に』と述べられていることに注目すべきです。

 パウロの宣教団は、祈ることで、心を合わせているのです。

 議論ではありません。方策を練ることでもありません。祈ることなのです。

 日本基督教団も、かつては、教団総会や常議員会という最高議決機関で、ただ、激しい議論に明け暮れ
ていましたが、小島誠志議長になってから、冒頭に必ず、御言葉を朗読し祈ることから初め、この頃は、礼拝を
持ってから、議事を始めることになりました。

 実は、日本基督教団の議事規則には、祈りをもって会議を始めると明記されています。


◆私たちの教会だってそうです。人間の集まりですから、何事に関しても意見が同じということはありません。違
いが表面化します。

 そういう時に必要なことは、話し合って調整することでも、お互いに譲ることでさえありません。祈ることです。

 祈ると言って、相手の意見を変えようと説得するのは、祈りとは言えません。

 実に、教会の、力も確信も、祈りから生まれるのです。


◆3節。

 『あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、

   わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、

  わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。』

 『力と、聖霊と、強い確信』があれば、何事もうまく運ぶ、挫折なんてしないとは言っていません。

 むしろ、『愛のために労苦し』です。

 しかし、『希望を持って忍耐している』のです。それが、信仰生活ということです。

 信仰を御利益でしか考えられない人には、この辺りは、全然理解出来ないでしょう。

 『力と、聖霊と、強い確信』があれば、何事もうまく運ぶ、挫折しないのではありません。『希望を持って忍耐』
出来るのです。

 真剣な祈りとは、神さまを説得することだと勘違いしている人はいないでしょうか。神さまに無理強いしている
人はいないでしょうか。


◆4節。

 『神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、

   わたしたちは知っています。』

 ここも同様に受け止めなければなりません。

 キリスト教の選びという考え方を嫌う人が、教会外には勿論、教会の中にも少なくありません。確かに、神に
よる選びを、何か特権と考えているならば、嫌われるのは当然でしょう。また、そういう思い上がりに陥りたくない
と言うのも、分かります。

 しかし、選びとはそういう思い上がりではありません。むしろ、逆かも知れません。私には何の資格もないのに、
神さまが選んで下さったということなのですから。

 私が、努力や才能で勝ち取ったのではなく、ただ、神さまに恵みとして与えられたことなのですから。


◆6節。

 『そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって

   御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、』

 選ばれた者とは、このような姿をしています。

 選ばれた者が、選ばれたが故にこそ、『ひどい苦しみの中』にあります。

 しかし、それで滅入っているのではなく、『聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ』ると書いてあります。

 聖霊の働きがなければ、福音の言葉を語ることが出来ないように、聖霊の働きがなければ、福音の言葉を
聞き、受け入れることは出来ません。理解力、知力よりも大事なのが、聖霊の助けです。聖霊が働かなけれ
ば、耳で聞いても、心に響いては来ません。


◆『わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり』も、単純なことではありません。

 パウロのように偉くなるとか、キリストの神聖に与るとかと言っているのではありません。キリストの十字架に与る
とかと言っています。十字架を担う者になることこそが、『わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり』の意味で
す。


◆さて、彼らの信仰を、9節、10節が、具体的に表現しています。9節後半。

 『すなわち、

   わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、

   あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、

  生けるまことの神に仕えるようになったか、』

 9節だけで、3つのことが言われています。

 1.福音宣教に携わる者を、歓迎して受け入れること、つまり、福音の言葉に接するこ  とに喜びを見出す
こと、

 2.偶像から離れること。信仰を得ても、何も生き方が変わらないというのは、むしろ、  不思議なことなので
す。信仰を得るとは、新しい知識を一つ得て、古いものはそのま  ま大事に保存しておくということではありませ
ん。

  キリストの十字架に救いを見出すということは、空しい価値に縛られないことです。

 3.生けるまことの神に仕えるようになった。

  信仰者は、神に仕えるのです。神に仕えることが、本当の意味での自由です。


◆10節前半。

 『更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。』

 キリストが再び来られることを、信じて待ち望むのが信仰です。キリストが再び来られないかのような、生き方
をしてはなりません。未来に希望がないかのような生き方をしてはなりません。

 10節後半。

 『この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、

   来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。』

 このことが、使徒言行録の時代の、具体的な信仰でした。

 復活は期待するけれども、神の怒りは歓迎しない、それでは、信仰は成り立ちません。神さまの恵みは欲し
いけれども、神さまのために働くのは御免被る、そんな信仰はありません。