日本基督教団 玉川平安教会

■2024年11月17日 説教映像

■説教題 「一人一人に呼びかけ」

■聖   書  テサロニケの信徒への手紙一 2章1〜12節 


◆1〜2節を読みます。

 … 1:兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、

   わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。

   2:無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、

   わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、

   わたしたちの神に勇気づけられ、

   激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。…

 以前、パウロはテサロニケ教会を訪問しています。そこで特別な出来事が起こりました。しかし、パウロにとって
は、繰り返し体験した出来事の一つでした。

 

◆ここでの特別な出来事を、もう少し、推測することが出来ます。

 『以前フィリピで苦しめられ、辱められた』と述べられています。パウロは、フィリピで足枷をはめられて投獄され
るという苦難、同時に辱めに遭いました。テサロニケ訪問は、その後のことと思われます。

 この出来事について、テサロニケの教会員には二つの相反する反応が生まれました。

 一つは、「そんな苦難に遭ったパウロが、それでも我が教会を訪問し、福音を伝えてくれた」という感謝・喜び
です。

 今一つの反応は、「パウロはローマに捕らえられた、足枷の刑まで受けた、罪人ではないか。そのような人物を
伝道者として迎え入れて良いのか。」という懸念、疑いです。


◆3節。

 … わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、

   ごまかしによるものでもありません。…

 詳細は分かりませんが、エフェソで逮捕されたことにも、テサロニケでの伝道にも、曲がったこと、間違ったことな
どは一切ないという弁明です。

 逆に言えば、このような弁明が必要な程に、パウロを批判する人がいたのでしょう。パウロにとっては、足枷をさ
れることよりも、鞭打たれることよりも辛い現実です。しかし、パウロはそんな目に何度も遭っています。二コリント
11章26〜27節。

 … 26:しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、

    町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、

  27:苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、

    飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。…

 伝道のために、様々な苦難に出遭ったパウロですが、それ以上に、同じ信仰を持っている筈の教会員に批
判・非難されることが、パウロにとって、何とも辛いことでした。


◆4節。

 … わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、

   このように語っています。人に喜ばれるためではなく、

   わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。…

 『人に喜ばれるためではなく〜神に喜んでいただくため』、伝道者パウロは、このことにだけ慰められ、励まされ
て、その業を続けています。

 私たちだって同じことです。信仰のことだけではなく、人生そのものが同じことです。誰に認めて貰いたいのか、
評価されたいのか、人によっていろいろあるでしょうが、自分自身をも含めた誰か人間の評価を期待していた
ら、必ず躓きます。誰も正しく認めてくれません。自分自身だって、正しく評価出来るか、怪しいものです。

 神さまに認めて貰うしかありません。神さまに評価して貰うしかありません。角度を変えて言えば、誰か他の人
間に裁かれても、或いは自分自身で裁いても、それは絶対のことではありません。神さまに裁いていただくしか
ありません。


◆5節。

 … あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、

   口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。

  そのことについては、神が証ししてくださいます。…

 人間の評価を求めていたら、本当の安心はありません。勿論、満足はありません。人間を相手に、どんなに
努力しても、逆に、付け入ったり阿ったりしても、そこには、本当の安心はありません。勿論、満足はありません。

 「パウロは、へつらったり、口実を設けてかすめ取ったり」していると批判する人がいたのでしょう。勿論事実無
根です。しかし、そんな批判をする人は、世の中必ずいます。

 こんな弁明をしなくてはならないことが、パウロには辛いことだったと、想像します。


◆6節。

 … また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。…

 この通りでしょう。『人間の誉れを求め』ても虚しいだけです。結局躓くだけです。

 7節。

 … わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。

   しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。

   ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、…

 『母親がその子供を大事に育てるように』、そのためにこそ『幼子のようになりました。』この通りでしょうが、何と
も面白い表現です。

 絶対の確信を持って、子供をしつけることが、母には出来ます。そのような、権限も責任も持っています。しか
し、『幼子のようになりました。』何も持っていない者のように、何も知らない者のように、何も経験していない者
のように振る舞ったと、言うのです。


◆しかし、8節。

 … わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、

   神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。

   あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。…

 パウロとはこのような人です。義務や立場ではありません。

 『あなたがたをいとおしく思っていた』、どうしてそんな風に、『いとおしく』思うことが出来るのでしょうか。不思議
です。さんざんパウロを批判する人たちをです。

 『自分の命さえ喜んで与えたいと願った』、とても、信じられません。人間、そこまで自己犠牲的になれるので
しょうか。

 『愛する者となった』、パウロを悪し様に言うテサロニケの教会員のどこに、そんな愛を受ける値打ちがあったの
でしょうか。


◆一つは、『わたしたち』と言う言葉に意味があります。私ではありません。『わたしたち』です。つまり、伝道者た
ちです。パウロ一人ではありません。今日の箇所全部、『わたしたち』です。愛する対象も『あなたがた』です。つ
まり、教会そのものです。

 全部、『わたしたち』であり、『あなたがた』です。

 これは、伝道者・牧会者が、『あなたがた』つまり、教会を愛し、そのためならば、どんな犠牲をもいとわないと
いう話です。これが、基本です。


◆しかしながら、一寸飛んで11節を読みます。

 … あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、

   あなたがた一人一人に…

 『あなたがた一人一人に』と言っています。教会と言う組織のことではありません。

 今さっき申しましたように、伝道者・牧会者が、『あなたがた』つまり、教会を愛し、そのためならば、どんな犠
牲をもいとわないという話は、現実にあると考えます。

 その証拠には、この教会という言葉を、国に置き換えたら、町や村に置き換えたら、不思議でも何でもありま
せん。国を愛し、そのためならば、どんな犠牲をもいとわない。

 珍しくもありません。ヒトラーの言葉とさえ聞こえます。

 しかし、パウロが言うのは、『あなたがた一人一人に』です。

 その一人一人とは、テサロニケ教会員のことです。

 話が飛躍するかも知れませんが、これは、聖書の基本です。

 12月の誕生カードは、ツリーの形をしていますが、これは実は、ぶどうです。ぶどうのイラストを、逆さまにして、
ツリーに見えるように、細工しました。

 そのぶどうの一粒一粒に、教会員の名前を書いて貰うようになっています。まだ、記名していない方は、後で
是非、ご自分の名前を書き込んでください。


◆ヨハネ福音書15章5節。

 … わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

   人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、

  その人は豊かに実を結ぶ。…

 何故、教会の比喩は、ぶどうなのか、オレンジではないのか。ぶどうの絵を描く時に、一粒だけを描く人はあり
ません。

 ぶどうは一粒ではぶどうとは見て貰えません。一房で初めてぶどうと見て貰えます。

 ところが、その一粒一粒が、果軸でツルと枝と幹と、そして根と繋がっています。ですから、鳥に囓られて一粒だ
けになったとしても、命を保っています。オレンジなら、ぶどうよりも纏まりが強いと思いますが、その房の一つでも
囓られたら、もうおしまいです。腐ってしまいます。

 これが、聖書が説く集団と個の話です。個は集団があって初めて活かされ、集団は個が集まって出来ていま
す。個だけでは成立しません。集団だけでも成立しません。

 

◆百匹の羊の譬えもそうです。迷子になった一匹の羊が、尊いものであって、だから、羊飼いはその一匹を探し
出すという話ですが、逆に見れば、100匹いなくてはなりません。100は完全数です。一匹欠けたら、その集
団が完全ではありません。そういう話です。

 今日の箇所も同じです。『わたしたち』であり、『あなたがた』です。

 そして、それだけではなく、『あなたがた一人一人に呼びかけて』です。

 教会に語られる言葉は、同時に『一人一人に呼びかけ』られる言葉でもあります。

 パウロは教会を愛しています。ですから、そこにいる一人一人をも、『あなたがたをいとおしく思っていた』『自分
の命さえ喜んで与えたいと願った』『愛する者となった』と言っています。一人一人に、パウロに愛される値打ちが
あるのではありません。

 そこを間違えてはなりません。パウロは教会を愛し、だから、一人一人を愛します。


◆9節に戻ります。

 … 兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。

   わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、

   神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。…

 これは、読みようによっては、痛烈な皮肉です。否、皮肉を読み取らなくてはなりません。パウロは、コリントで
もそうですが、いろいろとつまらない批判を受けました。その中でも、パウロたちは、献金を私しているという批判
がありました。勿論、事実無根です。そこで、パウロは、コリントでもテサロニケでも、働きなら資金を得て、他の
伝道地へと赴きました。

 この時代だからこそ、伝道旅行には大変な資金が必要です。単純に考えれば分かります。

今は、東京〜京都間を新幹線なら3万円以下で往復できます。江戸時代なら、60万円くらいは必要だった
そうです。パウロ一人ではありません。人数は分かりませんが、伝道団です。莫大な費用です。テント作りのア
ルバイトで、まかなえる筈がありません。


◆10節。

 … あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、

   非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、

   神も証ししてくださいます。…

 これを「成る程」と聞いたら、大間違いです。パウロを、こんな風に追い込んだのはテサロニケ教会員です。パ
ウロに大きな犠牲を強いたのです。

 勿論、パウロのことですから、どの町でも、どんな状況でも『敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるま
った』に違いありません。しかし、パウロにこんなことを言わせているテサロニケ教会の罪は小さいとは思えません。


◆そのようなテサロニケ教会員に、パウロは語りかけています。11〜12節。

 … 11:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、

    あなたがた一人一人に

  12:呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。

   御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。…

 この言葉は、則ち福音です。パウロはこの福音を『励まし、慰め、強く勧めた』とあります。ただただやさしく、で
はありません。『励まし、慰め、強く勧めた』です。

 『神の御心にそって歩むように』です。一人一人の思いのままにではありません。


◆『神はあなたがたを招いておられます。』

 それは『国と栄光にあずからせようと』してのことです。そのことのためにパウロも働いています。他のことのためで
はありません。『神の御心にそって』であり、神の国を目指してです。一人一人が、好き勝手な方向に歩いてい
るのではありません。

 好き勝手な方向に歩いたら、神の国には辿り着きません。迷子になってしまいます。